夜の帷 短編

 私は、自分に酔っているのだろう。
いえ、それは、主観的に感じた自慰的なものではなく、客観的にみて、そうなのだと思えるのだけれども。

 病室で会った彼は、数年前の面影などないくらいに廃れた顔でそう言った。そのときの僕は、彼が過去に自殺を図ろうとした事も、ずっと一緒にいた女と連絡を絶ったことも知らなかった。
 彼は続けて僕に、ことの全てを教えてくれた。



今から1週間程前の話です。

 病院帰りの交差点。前の夜、自殺未遂で呼んだ救急車で通った道に、薄汚れたシャツで突っ立っていました。
 私は前の夜、薬を大量に飲み、アルコールを呑んで、一瞬の夢見心地を体験すると、途端に激しい痛みが襲い、それから自分で救急車を呼んだのです。そこからの意識はありません。気がつくと、病院のベッドの上にいたのです。

 信号が変わり、家までの短い距離をトボトボと時間をかけて歩きました。その様は、何様にも言い難いのですが、やはり自殺を図るだけあって、生きているという感じは微塵も感じない、強いて言うなれば生きる屍の様であります。陰気な空気を漂わせては、何故死ねなかったのかなどと考えておりました。

 家に着くと、蔓延するアルコールの臭いにやられ、トイレへ駆け込んで、もどしました。そしてもどしながらもまた考えたのです。何故死ねなかったのか。
 携帯電話はもちろん、外界と繋がるもの全てが怖く思えて、手に取れませんでした。怖く?いや、怖く思う自分で居たいのでしょうか。

 トイレから出ると、部屋のそこら辺に、前日にもがきながら嘔吐した跡が残っていて、それらを拭き取り、窓を開けて換気しました。窓を開ける自分が反射して、空気と光と同時に嫌気がさしました。昨日、死のうと考えていた人間が、窓を開けて換気して、部屋を綺麗に掃除して、生きる為に都合の良い行いをする。
 それが、哀れで、滑稽で、逆に面白く思えてしまって、どうも気に障ったのです。私は布団に倒れ込みそのまま寝てしまうことにしました。

 深夜、目が覚めました。側に放置されていた携帯電話は電源が切れてありましたが、私はそれに何事もなかったかのように充電器を刺しました。電源をつけると、至って特に誰からもメッセージなどは来てなく、唯一、胡散臭い営業セールスのメールだけが来ていました。これが私にはなかなか効いたのです。
 私は、それから風呂に入り、カピカピに固まってしまった髪と、汚れた身体を剥けるほど洗って、頭からお湯をずっと浴びていました。そして気がつけば鳥が囀り出して、日が登っていたのです。私自身、朝がここまでも醜く思えた日は、生涯で後にも先にもこの日だけだとおもいます。

 私はクシャクシャの寝巻に着替え、また布団に突っ伏しました。私の身体の自重で私が潰れてしまいそうでした。操り人形の糸が切れるように、身体が自分のモノとは思えぬ程、どこか下に堕ちていく感覚が癖になりました。そして私は、いつからこんな風になったのか、そんな事を無い頭で考えてみることにしました。

 思えば、浮き足だって夢を追いかけていた私は、他人の真似事をして、私を作っていたのです。思考、行動、あるいは人間。他人からの視線が生きる支えで、それが私の存在価値だと思っていました。そして他人からみて見栄えの良いレールを自分で敷き、その上をいざ進むとなった時、レールに乗ったのは、豪華絢爛な蒸気機関車では無くて、ただの板材で作られた簡易なトロッコであった。私は自分を認めたくなかったのです。もっと出来る。もっと才能がある。私はもっともっと出来た人間なのだと。
 いえね、そんなものは口からでまかせでね。
ただ、ただ怖かっただけなんです。私は置いていかれるのが。それだけなんです。私はいつも他人と比べられる環境にいました。それは些細な事から大きな事まで。
 私は、自分が好きなのです。この世の誰よりも。だから自分が少しでも周りに優っている間に逃げたかった。私は花札がありましたら、こいこいをせずに、五光を狙わずに、カスで上がればそれで良かったのです。

 そうこう考えているうちに、電話がかかってきました。それは、友人といってもいいのか親友といってもいいのか、恋人なのか。愛人なのか。知り合いなのか。そんな位置付けの人からでした。

 私は電話に出ると、柔らかい声が耳に届きました。彼女は電話越しに陽気な声で「明日の朝、お会いしませんか?」と言うのです。今思えば、その声はどこか少しの含みがありました。そして私は少し他人に縋りたいという気持ちもあって、二言返事で彼女と会うことになったのです。

 約束通り、翌日の朝に彼女と近くの喫茶店で会いました。
 これで何度目なのだろうと心の片隅で思いながらも、私は彼女で自分の存在価値を見出していました。いつでも彼女は優しく、全てを包み込むような人でした。ですから、それに甘えて私は、ここぞとばかり無い見栄を張っては大きく魅せようとしたのです。まるで母親に得意気に話し出す子供のように。ですが、彼女は母でない。会って他愛もない話をして、それがいつの間にか私の奥底からの寂しさ溢れた話になって。ふと顔色を見ると無理して笑顔を作ってる。それが分かると、私はいつも後悔するのです。

 彼女はブラックコーヒーが好きなようで、私には理解できませんが、この苦味がいいのだそう。私はブラックコーヒーが好きではないですが、無理して頼みました。子供のように強がりました。
良いところを見せたいのですから。
 そして、なんでもない話をしては、私は間が持たないですから、すぐに沈黙になりました。

暫くして彼女が
「何となくですが、何かありました?」
と言うのです。

 私は冷や汗が噴き出て、惨めさが一層強くなりました。母に全てを悟られた子供のように、彼女の言葉が怖くて仕方がなかったのです。
 私はそれでも、自殺を図ろうとしたことも何もかもを全てを話してしまいました。他の人には話さないような私の弱さや、嫌だと思っている部分を彼女には、何故だかどうしても話してしまうのです。

すると、やはり強張った笑顔で
「大丈夫ですよ」
と言うのです。

 この結末は毎度の事なのに、その都度、話して後悔する。私は居た堪れなくなって、何をするわけでもなくトイレに駆け込んで、少し時間を置いて彼女の元へ戻りました。

彼女は
「やっぱり貴方は面白いですね」
と言って優しく笑うのでした。それは、どこか影が落ちたような感じがしましたが、私の事を労って出来た顔だと思いました。

 その後、カップの底をついた私は、財布にあるなけなしの金でお会計をして、その場で彼女と別れ、姿が見えなくなった後に、彼女の連絡先を消しました。それは、私が幾度となく試した最後の結果でした。彼女にとって私は害でしかない。だから距離を置くのだと。
 彼女からすれば、特に何もないモーニングコーヒーの相手だったのでしょう。私はそんな彼女の友愛を勘違いして、縋って縋り尽くした挙句、捨てました。

 帰り道をトボトボと歩く様は、酷く不審だったでしょう。いつも昼前に散歩をしている近所の犬にやたらと吠えられましたから。そうして、家につくと、どっと疲れた私は、昼飯も食べず、電気もつけずにボーゥっと窓を眺めていました。
 気がつくと外を鳥が騒めくのです。それは夕方を告げる烏の鳴き声でした。
 私は、元より無意味な時間を過ごすことが多くありましたが、自殺を図ってからは余計に増えました。そしてその都度、後悔するのです。ですが、かと言って何かをするという気力や、したいという欲望なんてものは無く、ただ時間潰すことで生きている事を実感するのです。

 外へ出ると、夕方の散歩をしていた近所の犬に吠えられました。その吠えた犬の目は、まるで死に損ないの鼠をみているようでした。
 行く宛も無く外に出てふらついていると、神社の前につきました。それは、廃れて掃除の行き届いていない、荒れた社でした。私は、そこの捨てられた神に同情して、落ち葉を拾って集めたりなんかしました。自殺も自分の弱さも惨めさも、それを被って逃げている自分が好きなのも。全部帳消しにしてくれる施しを与えてやっていると思えて、気持ち良くって仕方がなかったのです。
 そうして私は落ち葉を拾い終えた頃には、陽はとっくに暮れていて、哀れな自分の影だけがポツリと残っていました。

 そんな時です。神は全てを見ていると言いますが、私の偽善の心も見透かされていたのでしょう。私の電話が鳥居の下で鳴り響きました。

「久しぶり。突然の電話ですまない。いや、先に挨拶だな。元気か?……突然だけどさ、お前とずっと一緒にいたあの女性がいただろう?」
 電話口から聞こえてきたその声の主は、私の少ない交友にあった君からでした。
 そして、あの女性というのは、今朝モーニングコーヒーを一緒に飲み、私が一方的に会うのを辞めることにした彼女の事でした。

「今日の昼に亡くなった。踏切に飛び込んだって。お前の事だから変な気を起こさないかと心配になって電話した。が、今お前何してる?」

 私は、そっと電話を切りました。今耳に入ってきた文言を理解する迄に時間がかかったのです。
そして、彼女が自殺をしたという事を理解した瞬間に、私は夜の帷へ発狂して走り去りました。

 彼女は、今日、あの後、あの帰り道で自殺しました。
私は、自分の、あの、連絡を切っていた間に、彼女は、踏切に飛び込んだって。

 暫く発狂して走り続けていると、通りかかった警察に止められました。そして、私は警察の方に何かを聞かれている最中に、意識が飛びました。

 そして目覚めると、私はこの病室にいました。
 意識が飛んでいる間も、彼女の事を考えていたのだと思います。目を覚ました後、看護師さんから「ずっと、『どうして』とうなされておりました」と言われましたから。
 今思えば、彼女のあの含みのあった誘いや、彼女の笑顔なんかは、私の自分に対する考え過ぎで、彼女自身の事だったと、そして最後の助けを求めていたのだと……そう思います。

 そして数日たった今、私の事を聞いた君がここに駆けつけてくれたのです。


 そう話し終えた彼は、ベッドに横たわり、窓の方を見て、頬のこけた口を僅かに動かし、
「なんで、彼女が。私の方が良かったのになぁ」
と言うのでした。僕は、静かに彼の横に突っ立つことしかできませんでした。

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