蝶々 掌編
「おや。お母様、お庭に可愛らしい蝶々が飛んできましたわ」
縁側の隅の木椅子に座り、お庭の外をスゥーっと眺めておられるお母様は、私の言葉を聞くと、こちらをご覧になって
「まぁ!可愛らしい蝶々ですね。その白い羽なんかは、メイちゃんのリボンみたいですよ」
とニコリと笑みを浮かべて仰った。
私の頭の上には、白いシルクで縫い合わされたリボンが付いている。
このリボンは、随分と前に、お母様が私に作って下さったモノで、私はそれはそれは嬉しくて、どこかれ構わず頭につけていたものだから、今でも近所ではリボンちゃんなんて呼ばれている。
「蝶々さんは可愛いけれど、このリボンには勝てないわ」
と私が言うと、お母様は、またニコリと笑みを浮かべ、今度は何も仰らずに、お庭の外を眺め始めた。
蝶々は気がつくと居なくなっていた。
翌る日もお母様は、縁側の隅の木椅子に座り、お庭の外をスゥーっと眺めておられた。
お母様は、ずっと父の帰りを待っておられる。いつまでたってもずーっと。
私はお母様に、父が家を明けてから、それこそ最初の頃なんかは寂しくて、いつ帰ってくるの? どこに行ったの? とばかり聞いていたけれど、ある日の夜中、お手洗いに向かうときに、お母様がこっそりと台所で泣いているのを見てからは父の事を聞くことは自然と無くなった。
父が家を明けてすぐ、お母様は、縁側の隅の木椅子に座り、お庭の外を眺めるようになった。
その横顔は、どこか儚げで、今にも消えてしまいそうで。うんと哀しそうな目をしていたので、私はお母様を笑顔にしようとばかり考えていた。
また、お庭に一匹の可愛らしい蝶々が、風に乗って飛んできた。
「お母様!また可愛らしい蝶々が飛んできましたわ」
と言うと、お母様は木椅子からスッと私の側へ寄って、また、私のリボンのようだと一緒になって蝶々を眺めているうちに、
「この蝶々は、昨日の蝶々よ。きっと」
と笑顔で仰った。
私は、お母様が今日も笑って下さったのが心底嬉しくなって、この白い羽の蝶々が明日も、明後日もその次の日も、この家のお庭に来てくれるようにと願った。
数日たったある日、お母様は風邪をひかれてしまった。
お医者様は、薬を飲んで寝ていればすぐ治る。と言っていたけれど、お母様の容態は、日に日に悪くなる一方で、いつの間にか、縁側に向かうどころか、布団から出られなくなってしまった。
お医者様は、もしかすれば流行り病を罹ってしまったのかもしれないと、その日から様子を見に朝、夕、と来て下さった。
私は、お母様の笑顔が日に日に無くなってしまったので、どうにか笑って欲しいと思い、お庭の方にいって、あの白い羽の蝶々を探してみたけれど、見つかるのは、蝗や羽の濁った蛾なんかばかりで、あの綺麗な蝶々は居なかった。
暫くしてお母様の寝ている寝室へ様子を見に伺う際に、自室の棚の上に、お母様が作ってくれたあの白いリボンが飾ってあるのがみえた。私は、それをみて凄く嬉しくなり、そのリボンを手に持って急いでお母様のもとへ駆け込んだ。
「お母様。みて、あの蝶々が今日も飛んできたわ」
そう言うと、お母様は、少し、ほんの少しだけ
笑みを浮かべて
「まぁ、可愛い子」
と仰った。
私はお母様が笑って下さったのが嬉しくて、思わず声をあげて泣いてしまった。すると、お母様は
「メイちゃん、ありがとう。元気になったらまた、あの蝶々さんを探しにいきましょう」
と仰り、私の髪を撫でてくれた。
私は、お母様のとてもか細くて、力の少しも入っていない手をずっとずっと頭の上に置いていた。
暫くして、お医者様が来ると、取り寄せていた流行り病に効く薬が、やっとのことで届いたので打ってくださった。
お母様は注射を打つとまたお眠りになったので、お母様のお布団のお隣に、いつでも笑って下さるように白いリボンを置いて寝室を出た。
私は今、縁側の隅の木椅子に座っていらっしゃるお母様と、お庭にやってきた白い羽の蝶々を笑顔で眺めている。白いリボンを頭につけて。