モンスター・イン・キャッツ・クロージング◆#1◆
(静かな廊下だ。足音が吸い取られるようだ)
一歩一歩、音を立てぬよう足を運びながら、男は思った。やけに薄暗い、とも思ったが、それについては不安から来る錯覚だろう。実際、天井に並ぶ蛍光灯は他のフロアの物と全く同じだし、確認できる限りそのどれもが真新しい。
当然だ。マケグミ企業のオフィスビルならいざ知らず、ここはトコロザワ・ピラーの中階層。ソウカイニンジャ達が邪悪なワザマエを磨くトレーニングフロアの中の一区画。切れ掛けの蛍光灯などがあれば、クローンヤクザなりザゼントレーニングで反発心を削ぎ落とされたニュービーなりがせっせと取り替えている筈である。
(俺がニュービーの頃もやらされたもんだ。そういう、クソったれな雑務を……)
苦い記憶が思い起こされ、男の口元が自嘲の形に歪もうと動きかけたものの、緊張により口輪筋が強張っていたせいで失敗に終わった。顔の下半分を覆い隠すメンポがなければ、なんともいえない微妙な間抜け面が晒されていたことだろう。
過去に思いを馳せて気を紛らわそうとしたところで不安が散ることはなく、明るく照らされている筈の廊下は、やはりどこか薄暗い。まるで足元に幽かな闇が纏わりついているかのように、一歩が不愉快な重みを持っている。
男は、その名をキャットウォークという。
ニンジャソウルを宿しソウカイヤに身を置くまでは、空き巣や強盗で日々を食い繋ぐ、なんてことはないゴロツキだった。当時の名を名乗る機会は、恐らく今後二度と無いだろう。
今の彼は幾つかのソウカイヤ傘下企業との連絡員の任に就いている。名目だけ見れば大層な役職に思えるかもしれないが、出向く先は企業ニンジャも持たない様な中小企業。業務内容も実質ソウカイヤ首魁であるラオモト・カンへの上納品の取り立て程度。結局はオツカイ、雑務の延長だ。
育ちも頭も悪く、カラテ練度も低い彼の様なサンシタに回ってくるのは所詮、そのような仕事が精々だ。給料も安い。カチグミ企業を担当しているような連中はさぞ良い思いをしているのだろうと、よく想像する。しかしそこで実際どのような高度なやり取りが行われているかは、彼の想像力の及ぶ所ではない。
静かで長い廊下を進み続け、やがてキャットウォークは無機質なミンチョ体で「四九」とショドーされたフスマの前で足を止めた。フロアの中でも他の施設から隔離されるように存在するこの49番トレーニングルームは、彼が思い出す限り常に施錠されており、使用されていたことは一切無い。
己の心臓の音や呼吸音が、酷く大きく感じる。やはり、この廊下の静けさは異様だ。今現在も同じフロアで複数人のニンジャがトレーニングに打ち込んでいる筈だというのに、あらゆる音が奇妙なほどに遠い。カラテシャウトも打撃音も、どこか別の世界から届く音のようだ。自分の立っているこの空間だけが、世界から切り離されているかのように。
そういえば、いつだったか。トレーニング中に他のニンジャと「あそこは何かウカツをやらかしたニンジャを処分するために使われている部屋に違いない」などという噂で盛り上がったこともあった気がする。
「ハハ……」
キャットウォークの口元が自嘲の形に歪もうと動きかけたものの、緊張により口輪筋が強張っていたせいで失敗に終わった。
「処分か」
あの時は笑い飛ばしていたが、今この瞬間もそうでいられたのだろうか。もしも自分が、この部屋に呼び出されたのでなかったなら。或いは、自分にやましいことが何一つ無かったなら。
キャットウォークは油が切れたかのような動きで携帯IRC端末を懐から取り出すと、数刻前に受け取ったメッセージを再度確認した。
#SOUKAI_NET :UNKNOWN:ウシミツ・アワーに49番トレーニングルームへ参られよ
送信者は不明。ただ、ソウカイネット内部から送られてきている以上、無視をしては己の立場を悪くしかねない。けして良いとはいえない彼の頭でも、その程度の判断はできた。
照明には相変わらず何の問題も無いが、足元の闇が濃さを増しているように感じる。掌は汗に塗れているのに喉はカラカラだ。身に纏う鳶色のニンジャ装束で掌の汗を拭い、唾を何度も呑み込み、装束の左胸に刺繍されたクロスカタナを握り締めるようにして、大きく深呼吸をした。仕事についての指示か何かに違いない、ダイジョブダッテ。そう自分に言い聞かせる。
施錠されていたならばこのまま帰ってしまおう、と儚い希望を持って手をかけたフスマは呆気無いほど滑らかに開いた。
室内の照明は廊下のそれと比べて弱弱しく、この広さを照らすには不充分であるように見える。とはいえ中の様子を読み取る程度ならば支障はない。他のトレーニングルームと同様の広々としたタタミ張りの部屋だ。
しかし、やはりと言うべきか、少なくとも今現在は本来の用途では使用されていないらしい。無造作に壁際に寄せられ薄く埃を被った木人やルームランナー、ダルマなどがそれを物語る。
タタミはまだ強く香りを放つ程度には新しいようだが、その香りの中に死臭が隠れているように感じるのは錯覚だろうか。先程までの不安が恐怖へ塗り潰されて行くのを感じながら、キャットウォークは緩慢に、その視線を部屋の中央へ向けた。
男が一人、ザゼンしている。
「入れ」
ザゼンの男は厳かにキャットウォークへ命じた。その一言だけで心臓が縮み上がるようだ。踵を返して逃げ出したい気持ちでいっぱいの心とは裏腹に、身体はジョルリ人形めいた動きで部屋の中へと進み出る。開けたフスマを閉じる精神的余裕など無かったが、それを咎められることは無かった。キャットウォークがタタミ五枚分程度の距離まで接近したところで、ザゼンの男は立ち上がった。筋骨隆々の身体は見上げるほどの異常巨体だ。
「ドーモ」
巨漢は巨大な両掌を胸の前で合わせ、丁寧にオジギをした。その指先だけで、キャットウォークの頭など容易く擂り潰すことができるに違いない。
「アースクエイクです」
キャットウォークは己の心中を満たしていた恐怖が、絶望へと変わるのを感じていた。
冗談ではない。己のようなサンシタ相手にシックスゲイツが出てくるなどと、どうして想像できよう。己はもう助からないのではなかろうか。ケジメで許されるなら、今すぐ手首ごと切り落としてしまいたい気分だ……。
破滅的な思考が毒めいて全身を冷やしていくが、しかし、ともかく、今はオジギをしなければ。古事記にも書かれている。アイサツをされたら、返さねばならない。
「……ドーモ、キャ、……キャットウォーク、です……」
巨人は絶望に震えるキャットウォークの無様なアイサツを見届けると、何か白い物を彼の足元の床へ無造作に放った。
「それが何かわかるか」
アイサツを終えているにもかかわらずオジギの姿勢を解けないでいるキャットウォークは、眼球だけを動かしそれを見る。彼の掌に収まる程度の大きさの、四角く透明な袋。中には白い粉末状の「何か」が詰まっており、よく見れば袋の端に「オテフキ社」と印刷してあるのが見える。オシボリやテヌギーを製造している、大きくも小さくもない会社だ。キャットウォークの担当している企業の中の一つでもある。
「……大トロ粉末、でしょうか……」
「そうだ。お前が毎月回収しているやつだな」
傘下企業からのラオモトへの上納品といえば殆どがこれだ。毎月、各企業にてこの粉末をアタッシュケースなりフロシキなりに詰めた物が用意され、それをキャットウォークがソウカイヤへと持ち帰っている。この小袋はその一部だろう。
「粉末が足りんのだ」
「足りない?中身の重量は、毎回、回収の前に確認しているのですが……」
よくもまあ、頭で考えるよりも先にこうも白々しい台詞が出てくるものだ。自分の舌から滑り出た言葉を、キャットウォークはどこか他人事のように聞きながら思う。アースクエイクも同じことを考えているだろうか。この男はどこまで把握しているのだろう。巨人の表情はどこまでも冷淡で、何も読み取れない。
「ああ、量は問題無い。ただ」
「ただ?」
「中に微量のイワシ粉末が混入していることが判明してな」
「……水増しされていた、ということですか……?」
「そうなるな」
事の重大さと比べればあまりにも素気ない返答だ。己の責任を問われているのか、それとも何か別のことが言いたいのか。判断がつかず、キャットウォークは続くアースクエイクの言葉を待ったが、巨人は口を閉ざしている。そのまま数秒間の重苦しい沈黙を経て、言葉を待たれているのは己の方だと、漸くキャットウォークは理解した。室内に充満する空気の中にはいつしか、肌を刺すような殺気が滲み出ている。彼は耐え切れず、タタミに這い蹲り、ドゲザの姿勢を取って叫んだ。
「申し訳ありません!このようなことを許してしまったのは、俺、いえ、私の責任です!ケジメします!」
そしてその勢いのまま、携帯していたクナイ・ダートを取り出し右手に構える。切っ先の向く先は左手小指だ。目の前の巨人が「是」とさえ言えば、この指を切り飛ばしてオシマイだ。そんな暗い希望を持ってアースクエイクの発言を待つキャットウォークだったが、頭上から降って来たそれは彼の望んだ言葉とは程遠かった。
「オテフキ社だけではない。貴様の担当する企業の粉末全てに、混ぜ物がしてあったことは調査済みだ」
先ほどまでの機械じみた無機質な声音とは違う。明らかにキャットウォークへの軽蔑を、糾弾を、殺意を含んだ声音だ。氷で出来たカタナで胸を突かれたような錯覚すら覚える。己が失禁せずにいられるのが不思議なくらいだ。
「付け加えるなら、粉末から微かに貴様のニンジャソウル痕跡が検出されている。小袋からではない。粉末からだ」
運搬役をしているキャットウォークのソウル痕跡が小袋に残っているのなら、それは何もおかしなことではない。しかしそれが、その中身から、となれば……
「貴様が大トロ粉末を抜き取り、その分だけ用意していたイワシ粉末を混ぜて誤魔化していた。そう判断せざるを得んぞ。キャットウォーク=サン」
キャットウォークは何も答えない。答えられない、というべきか。メンポに隠れた口を真一文字に結び、クナイ・ダートを左手小指に向けて握ったまま、全身の筋肉を緊張させている。アースクエイクの冷ややかな殺気に、脂汗などは全て引いていた。
「抜き取った大トロ粉末はどこへやった。これは横領だぞ」
「イヤーッ!」
キャットウォークの裏返り気味のシャウトが、張り詰めた空気を切り裂かんばかりに響く。叫ぶと同時、彼の右手に握られたクナイ・ダートは、アースクエイクの顔へとその切っ先の向きを変え、鋭く放たれた。無論それが届く筈も無く、容易く叩き落とされる。だがキャットウォークが全身にカラテを行き渡らせ、出口に向かって駆け出すための間は出来た。
(いいか、マッポだろうがヤクザだろうが、ヤバイ奴に追い詰められたらとにかく逃げろ。お前は頭がよくねえンだから、あれこれ考えたってどうにもならねえ。逃げることだけ考えるんだ)
モータル時代、空き巣や強盗で共に日々を食い繋いでいた相棒の言葉を、キャットウォークは思い出していた。金言だ。実際、粉末の在り処を白状した所で許されるだろうか?ノー、ノーだ。ラオモト・カンの上納品に手をつけるというのは、シックスゲイツが出てきたというのは、そういうことだ。喋ろうが喋るまいがキャットウォークの処刑は決定している。であれば、この一瞬の隙に賭ける他無い。
相手はビッグニンジャだ。ニンジャといえどそこまで敏捷ではあるまい。幸い、フスマは入室時に開いたまま開け放されている。常人の三倍を誇る己の脚力でこの巨人を振り切り、廊下を抜け、トレーニングエリアから窓を破って外へ……
「イヤーッ!」
「グワーッ!?」
すさまじい衝撃と奇妙な浮遊感によって、キャットウォークの頭の中で展開されていた脱出シミュレーションは中断された。踏み出した足が空を蹴り、視界が奇妙に裏返る。
アースクエイクが床を殴り、その衝撃で周囲のタタミがキャットウォークの身体ごと、メンコめいて跳ね上がったのだ。上下逆さになった視界でそれを理解する頃には、キャットウォークの片脚は巨人に掴まれていた。
「……貴様にクロスカタナを身につける資格は無い」
アースクエイクの口調からは既に軽蔑も糾弾も殺意も失せている。UNIX画面に表示される文字のように無機質だ。最早キャットウォークに対し、何の感情も抱いていないのだろう。逆さ吊りにされたまま、キャットウォークは失禁した。
「イヤーッ!」
次の瞬間、キャットウォークの身体は床に叩き付けられた。
「ア、アバ、アッ、アバーッ!」
床が砕ける音と全身の骨が砕ける音が頭の中で反響する。顔中の穴から血が噴き出した。四肢がでたらめに曲がっていた。そんな有様でありながら、痛覚は生きている。ジゴクめいた苦しみだ。実際、ソーマト・リコールどころではない。
アースクエイクは少々うるさそうに顔を顰めると片足を軽く持ち上げ、叫び声を上げ続けるキャットウォークの頭部を無造作に踏み潰した。
「サヨナラ!」
くぐもったような声がアースクエイクの足の下から響き、残されたキャットウォークの身体が爆発四散した。
フスマは開け放されたままだが、最高品質の防音素材が敷き詰められた廊下が、この部屋で起きた音を無関係な者へ届けることは無いだろう。上へ報告を行い、処刑ミッションは達成だ。抜き取られた粉末の在り処を調べるのは他のニンジャの領分である。アースクエイクは潰れたトマトめいたキャットウォークの残骸から足をどけ、懐から携帯IRC端末を取り出す。
「ちと遅かったか」
緊張感の無い声にアースクエイクが顔を上げると、開け放された部屋の入口に、一人の男が立っていた。サイバーサングラスでその目元を覆った顔には、落胆とも苦笑ともつかない、曖昧な表情が浮かんでいる。巨人の表情はそれを訝しむものへ変わる。
「遅かった、とはどういう意味だ。ビホルダー=サン。俺は殺せと指令を受けたぞ」
「いや、そいつなんだが」
ビホルダーと呼ばれたニンジャの指先がキャットウォークの爆発四散痕を指し示す。
「共犯者が存在した可能性が出てきてな」
「シンジケート内でこいつと親交のあった者の身辺調査は済んでいた筈だ」
「アー、違う。アースクエイク=サン。外だ。……いや、内といえば内なのか?」
「……どういう意味だ」
アースクエイクの表情が、さらに剣呑に歪められる。並のサンシタであれば足が竦むような眼光。しかしビホルダーは顔色一つ変えずに、世間話でもするような声音で答える。
「そいつには以前相棒がいた。同時期にニンジャになって一緒にソウカイヤ入りしたそうだ。モータルの時からつるんでいたのだろうな」
「どんなニンジャだ」
「雑魚も雑魚。ジツも全く大したこと無い。そいつらのメンターにさえ今の今まで忘れられていたくらいだ」
「今はどうしている」
「死んだ、ということになっている。イッキ・ウチコワシのテロ行為に巻き込まれ、あちらのニンジャと交戦し、戦死したとな。その報告を上げたのがキャットウォークだ」
アースクエイクのUNIXめいた頭脳はこの段階でビホルダーの言わんとすることを概ね理解した。つまり、その相棒とやらの死亡報告は虚偽のもの。死んだと見せかけて何処かへ潜伏し、ソウカイヤの目の届かぬ所でキャットウォークとともに横領に手を染めていた。そういうことなのだろう。
「無論まだ可能性の段階だが、調べないわけにはいかん」
「実際にそうなら、粉末はそいつが所持している可能性が高いな」
「ああ、しかしまたそいつのジツが面倒で……まあいい、これは後で詳しく話そう」
「メンターはどうした」
「ケジメしたよ」
「それがよかろう」
アースクエイクが足の裏に付着した血や肉片をタタミに擦り付けて落とすと、二人は連れ立って49番トレーニングルームから退室した。
「またタタミを張り替えんとな」
フスマを閉めながら、ビホルダーがぼやいた。