モンスター・イン・キャッツ・クロージング◆#4◆
カガシの実の父はハギヲの弟だ。兄とは正反対、違法行為に及んで実家から勘当されたゴロツキだった。母には身寄りが無かったようだ。カガシを出産したのは正規の病院ではないらしく、今となってはどこから来て、どう父と知り合った女なのかもわからない。
どうしようもないマケグミだった二人は、現実逃避の果てにダウナー系違法薬物の中毒者へと成り果てた。カガシが物心付く頃には、もう両親の関心が彼へと向けられることはなかった。というより、薬物以外のほぼ全てから、興味を喪失していたようだ。カガシが空腹を訴えて泣こうが、怪我を負って喚こうが、冷蔵庫を勝手に漁ろうが、オーバードーズで酩酊状態の両親は何の反応も返さない。毎日毎日チャブに伏せたまま、時折思い出したように錠剤や注射器に手を伸ばす。そんな有様だったので、カガシは今思い返しても、両親がいつから事切れていたのかわからない。
腐臭で満たされたタタミ六枚分の部屋。世界から隔絶された空間。ハギヲが弟の住居を突き止めて訪ねて来なければ、カガシの人生はその中で終わっていただろう。当時のカガシの身長では、玄関扉のドアノブは回せても、チェーンを外すことが出来なかった。ハギヲはカガシを、人間の世界に連れ戻した。カガシにとっては彼こそが本当の父であり、何にも代えがたい恩人だ。
◆
「ドーモ」
「ドーモ。今日はまた随分と早いんですねえ」
入口の警備員はカガシの顔を見ると苦笑気味に言った。結局、いつもよりも一時間早く出社してしまった。もし未だに父と同居していたならば、出勤が早すぎて不審がられてしまっただろう。一人暮らしを始めていて良かった。
体調は万全だ。気分が少々高揚しているようなので、焦ってミスをしないように気を付けなければ。
「今朝は社長室も清掃するよう言われているので、鍵をお借りしても宜しいでしょうか」
なるべく不自然でない声音になるよう意識しながら、用意していた台詞を警備員に告げる。警備員は僅かに難色を示したが、「まあカガシ=サンならいいか」と詰所の壁に掛けられたキーボックスから社長室の鍵を取り出し、カガシに手渡した。カガシが社長の息子であることも、生真面目で誠実な人間であることも、警備員は知っている。疑われている様子はない。それだけに、今まで培って来た信用をもって相手を騙すような行為に、カガシは少なからぬ罪悪感を覚えた。
(だが、父を助けるためだ)
社長室の鍵を受け取ったカガシは、いつも通りに真っ直ぐに自分のデスクへ向かい、荷物を置いてオフィスの清掃を開始した。ただし、普段よりは幾分か雑に。机の下や棚の影など、目が付きにくい場所には手を付けず、広い床を手早く掃き清める。毎朝毎朝入念に清掃して来た甲斐あって、手抜きをしたとはバレないだろう。物置を掃除し終え、落ちていた掛け軸を壁に掛け直したところで腕時計を確認する。ハギヲの出社まで、時間は十分すぎるほどにある。
カガシの行動には迷いが無かった。廊下の奥へと向かい、警備員から受け取った鍵で社長室の扉を開ける。この鍵は父の出社より先に警備員へ返却せねばならない。大丈夫だ。冷静にやれば間に合う筈だ。三階分の掃き掃除よりは遥かに楽な作業だ。
彼はしめやかに机上のUNIXを立ち上げた。4桁のパスワード入力を促す画面に一瞬怯んだが、父の誕生日で起動することが出来た。不用心な。予測されやすいパスワードを使うのはやめた方が良いと、今度注意しておくべきだろうか。こんな状況でありながら、我が父らしさに苦笑が浮かんでしまう。表情を引き締め直し、画面にIRCログを表示する。
重役会議の通知、取引先とのアイサツ、食事会の打ち合わせ……
画面をスクロールさせながら、不審な文字列が無いか目を凝らす。キーボードを叩く掌が、じっとりと汗ばんでいる。退室する前に触った所を拭いておかなくては。頭の片隅で思いつつも、画面を流れて行くログを目で追い続ける。見慣れぬ名前は無いか?不自然な単語は無いか?違和感を抱かせるような文章は、無いか?
#TORITATE :CATWALK@SOUKAI:今月は18日に徴収。量同じ。
#TORITATE :HAGIWO@YANO:用意済み。徴収分の他は前回と同様に。四階物置まで。
#TORITATE :CATWALK@SOUKAI:ヨロコンデー。
「アッ」
無意識に発せられた自分の声に驚き、慌てて手で口を覆う。これだろうか。何度も文章の内容を読み直す。徴収、量、四階物置。雑品しか置かれていない筈の物置を、外部の人間とのIRCで話題に出すのはどう考えても奇妙だ。やはり、これだ。あの粉のことを話している内容だとしか思えない。SOUKAI、ソウカイ?耳慣れない単語だが、ヤクザクランの名なのだろうか。
覚悟していた筈なのに、いざ疑惑が具体的な形となると、どうにも頭が上手く状況を理解しない。軽い頭痛すら覚える。気持ちを落ち着けるように、出来る限りゆっくりと、深呼吸する。整理しよう。
父は、ヤクザか、あるいはそれに相当する「何か」と、恐らくは薬物のやり取りをしている。信じたくないが、それはもう、ほぼ確定だ。だがカガシは、父の人間性を、その厳格さ、誠実さを疑ってはいない。卑劣な手段で脅しつけられているか、さもなくば何か、止むに止まれぬ事情がある筈だ。自分にあのような仕打ちをするようになった父ではあるが、きっと父自身も苦しんでいるのだろう。追い詰められているのだろう。そうでなければ、自分をここまで立派に育ててくれた父が、あんなことをする筈が無い。
だが、逆に考えれば、このヤクザと手を切らせる事さえ出来れば。今父が抱えている問題さえ解決することが出来れば。全ては丸く収まる筈だ。以前のような社長と社員の関係に、父と息子の関係に、戻ることが出来る筈だ。そのためには何をすべきか、既にカガシは理解している。もう一度、深く、深く、息を吸い、吐き出した。
カガシは冷静に机上のUNIXをシャットダウンさせると、キーボードや机の上など、自分が触れた場所をハンカチーフで念入りに拭いた。社長室から退室する際にもドアノブを同様に拭いた。警備員に社長室の鍵を返し、自分のデスクに戻った時には、壁掛け時計は7時半を示していた。出社してくる社員は社長を含め、まだ誰もいない。理解してはいたが、どうにも落ち着かず、結局身を隠すようにフロアの男子トイレに入った。
手には一枚の名刺と、携帯IRC端末がある。彼はまだ寝ているだろうか。少なくとも今は営業時間外だろう。緊急事態なので、どうにかわかって欲しい。祈りながら、カガシは押し間違えの無いよう、一文字一文字、確かめるように端末のキーをタイプした。
昨日以上に、仕事をしたという実感の湧かない一日だった。カガシは一日中、社長室に忍びこんだこと、IRCログを閲覧したことがバレないかビクビクしながら過ごしていた。昨日のような折檻は無かったし、社内で見かける限りハギヲの様子は普段通りだったので、ひとまずは安心して良さそうだ。
常に緊張が解けなかったせいで、肉体的にも精神的にも疲労が凄まじい。近くにフートンなどがあれば迷い無く飛び込んでいるだろう。そのような状態にも関わらず、クタクタの体は少しでも早く目的地へ辿り着こうと歩を進める。早く彼に会いたい、会って話がしたいと、心が体より先を進んでいるようにも感じた。
アキベはカガシと知り合った時、共にサケを飲んだ店の前に立っていた。待ち合わせ場所を指定したのはカガシだ。アキベは先日と同じように、高級感のあるグレーのスーツに身を包み、姿勢よく佇んでカガシがやって来るのを待っていた。
「アキベ=サン」
カガシの声掛けに、アキベは品の良いオジギを返す。
「ドーモ。カガシ=サン。こんなに早く連絡を頂くことになるとは」
「いきなり呼び付けてしてしまってすみませんでした」
「イエイエ。丁度スケジュールに空きが出来ていたので。もう一度お話ししたいと思っていましたし。それに、」
お困りなのでしょう?
問い掛けに胸が詰まる。この人に話してしまえば心配はいらない。この人に任せれば、きっといい結果になる。そう、無条件に信じてしまえるような、優しくも頼もしい声音と瞳だ。初めて会った日と、全く同じだった。
「ハイ、実際とても困っていて……。立ち話もなんですし、店に入りましょう」
アキベが頷き、店の戸に手をかけようとした瞬間。アキベと待ち合わせの連絡を取るため手に握ったままだったカガシの携帯IRC端末が、ノーティスを発した。びくりと肩が跳ねる。とてつもなく、嫌なタイミングだ。
「確認された方がいいのでは?」
「ア、失礼……」
アキベに促され、恐る恐る画面に目をやる。表示されていたメッセージに、全身から冷たい汗が噴き出した。見なければよかった、と思った。
#KAZOKU :HAGIWO@YANO:すぐに会社に戻れ。社長室まで来い。
「どうしました?カガシ=サン」
真っ青なカガシの顔を見て、アキベが心配そうに問い掛けてくるが、言葉を返す余裕などある筈も無い。社長室に入ったのがバレた?或いはUNIXを触ったことまで勘付かれただろうか。それにしたって、どうしてこんなタイミングで。もう少し遅ければ、アキベ=サンに相談が出来ていたのに。失禁寸前にも見えるような表情で、カガシはアキベの顔と端末の画面を交互に見る。
「カガシ=サン?」
「アキベ=サン……スミマセン、すぐに戻ってきます……!」
自分でもどうにかしていると思う。ここでアキベからの印象を悪くしかねない行動を取るのがどれほど愚かしいことかはわかっているのに。アキベがいなければ取り返しのつかないことになるかもしれないのに。それでも、行く以外の選択肢は無いのだ。父が来いと言えば行く。カガシという人間は、そのように出来ていた。絶望に息を詰まらせながら、カガシは一歩、二歩と後ずさった後、弾かれたように、踵を返して駆け出した。
「カガシ=サン!」
背後から響くアキベの呼び声に強く唇を噛みながら、カガシは己の人間性をひたすらに呪った。
「カガシです」
「入れ」
「失礼します」
重い扉を開き中に入る。ハギヲは棘のある眼光で入室するカガシを迎えた。カガシは扉を閉めると、指示されるまでもなく鍵を閉めた。
「何故呼ばれたか、わかっているか」
「……ハイ」
この期に及んで、カガシはハギヲに対して嘘を吐くことが出来なかった。父は自分の行動をどう思うだろう。怒るだろうか。失望するだろうか。いくら父のためであるからといって、それが倫理的に間違っていることであれば、厳格な父は許さないだろう。勝手に父の城に立ち入って、IRCログを覗き見て。今日の自分の行動は、まるで卑しい盗人のように見えるに違いない。
「そうか。ならいい」
微かな笑みさえ浮かべながら、ハギヲはデスクから腰を上げた。シナイを手に取るのかと一瞬身体を強張らせたカガシだったが、ハギヲはその場に立ったまま、ただ息子の目を見ていた。
「少し前にな、カスミガセキのあたりでテロがあった。死人も幾らか出た」
カガシは最初、ハギヲが何を言っているのか理解出来なかった。話題の飛躍に、脳が混乱をきたしている。理解出来そうな単語のみを拾い上げてみる。カスミガセキ。テロ。該当しそうな記憶があった。半年前に起きた、反企業組織がメガコーポのビルを襲撃した暴動。その日、カガシはキョートへ出張していたため、ニュースでその出来事を知った。何故、今、そんな話を?
「俺もその日、その場に居たんだ。偶然だった」
ハギヲの顔の笑みは濃くなっていた。見たことも無い、邪悪な笑顔だ。五感の全てが遠のく。何が起きているのかわからない。何を頼りに立っていればいいのかわからない。無重力の空間に投げ出されたような感覚に陥りながら、カガシはその顔から目を離すことが出来なかった。
「俺がその場に居合わせたのも、ハギヲ・ヤノがその場に居合わせたのも、本当に運の良い偶然だったよ」
今、彼は何と?
カガシが認識し、理解するよりも先に、ハギヲの顔が剥がれた。否、この表現は正確ではない。正確には、顔の表面から「何か」が剥がれた、と言うべきだろう。だが間違った表現でもない。「何か」が剥がれた下から現れた顔は、ハギヲのものではなかったのだから。
顔だけではない。ハギヲ、否、「ハギヲだった誰か」の全身、その表面が、まるで罅の入ったバイオ鶏の卵の殻のように、ぼろぼろ、ばらばらと剥がれ落ちて行く。剥がれたものは床に落ちる前に、灰めいて跡形も無く崩れていった。カガシは声も出せぬまま、その光景を凝視するしか無かった。
そして、
「改めまして、ドーモ、カガシ=サン」
いつしかそこには、モノクロモザイク柄の装束を纏ったニンジャが立っていた。
「コピーキャットです」