【振り返れば挫折ばかりの我が英語人生第1章】
私はオンライン英語パーソナルコーチをしています。長い会社員人生を卒業して英語コーチとして起業しました。
今までの自分の英語力やそれにまつわるエピソードについて、外資系会社員時代の話を書いていこうと思います。
ちょっと長いですが、最後までお付き合い頂けたら嬉しいです。
英語で本格的に挫折を沢山感じるようになったのは、社会人になってから。
(とわいえ、中学時代の英文法で嫌になった時もあり、テストでも赤点をとっていたことがあったなぁ~💦)
大学を卒業してからは日系食品会社で勤務し、もちろんALL日本語。なんとなくの英語へのあこがれはあったものの、英語が得意ではなかった。
そんな私が、あるサイトを通じて外資系企業1社目のテクニカルのポジションを受けてみませんか?というお誘いを受けた。結果採用になり、それから3社(一度部門買収をされているので厳密には4社) の会社を経験し、合計約17年間外資系食品企業で勤務していた。
それぞれについて書いてみようとおもう。
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〇1社目
ドイツからのアメリカ
” 地獄の1丁目へようこそ"
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最初はドイツ本社の日本支店に入社し、上司がいきなり日本語を全く話さないフランス人!それも超フランス語なまり
私は英語がまったく話せないのに、よく入社させてくれたな~と思う。
当時の採用担当者曰く、福岡さんは技術職だから、技術のバックグラウンドの人を探していたので、英語は入社してから頑張ってくれたら良いですよって感じだった。
とはいえ、毎日のフランス人上司とのコミュニケーションが苦痛で苦痛で。。。
- 彼が何を言っているのか良く分からない。
- もう一度ゆっくり話してもらえませんか?の1言が言えずに思わず” YES”と答えてしまう。
- その結果、とんでもないことになる。
- 自分の意見もろくに言えない
- 壊滅的な英語でも一生懸命つたえるも、いつの間にか日本語で話している私(爆)
- 上司の存在に怯えて、早く出張に行ってくれないかなぁ~と毎日祈る(爆)
そして時差があり、日本時間の午後からヨーロッパの会社は動き始めるので、電話が海外からバンバンかかってくる。
結構着信を無視してたなぁ~(苦笑)だって何いっているのか分からないし、話せないし。恐怖でしかなかった。
ほんと電話にでないとか、職務怠慢(すいません。。)。よくクビにならなかったよね。
外資系なんか入らなきゃよかったと、毎日自宅のお風呂場で泣いていました。でもなんか辞めなかったのですよね~
それは先輩や同僚の方も親切だったし、自分の気持ちを吐き出して聞いてくれる環境があったからだと思う。
これすごく大事!気持ちを吐き出せない環境だったら、鬱になっていたように思う。
=初めての海外出張=
入社して約半年が経過したある日、
『Akiko, フランスへ2週間出張ね!』とフランス人上司に突然言われ、目の前が真っ暗になった。
出張で初めてのフランス・ルンルン♬なんて1ミリも思わなかった。
1人で渡仏...すべて英語...ガーンっていうか、フランスの田舎にある工場では英語さえも通じない。
そして出張当日、無事にパリに到着し、宿泊先のホテルに向かうが迷ってしまい、パリっ子に英語で話すも返事はフランス語で、変なアジア人が声かけてきたって感じで超不親切。
レストランで自分よりも後に入ってきたアメリカ人に先にオーダーを笑顔で取りに行くスタッフ。
これが話に聞いていたアジア人差別か?と戸惑いと怒りを感じたことは今でも覚えている。。。
キョロキョロ歩いていたので、いかにも怪しいフランス人男性にストーキングされて、まいてやろうと路地裏に逃げ込むと、今度は迷子になったり (笑)
パリから工場とR&Dセンターがあるノルマンディー地域に移動して、ホテルに到着すると、見知らぬシンガポール人女性2人が出迎えてくれた。彼女たちは同じ会社のSG支店で働く同じ技術職の同僚だった。そして初めてシングリッシュに出会った。(シングリッシュ=シンガポール英語)これまたかなり訛りのきついシングリッシュだったが、とても良い方達で、ありがたいことに今でも仲良くさせてもらっている。
こういう出会いが大きな収穫だった思う。なんだかんだで田舎の工場の人とも、簡単なフランス語でコミュニケーションがとれたし(予め簡単なフランス語をリスト化した自分辞書を作っていたのが功を奏した!)、思い返してみて、ほんとよく頑張ったと思う(笑)
そして1年たったある日、買収の話がにわかにプレスリリースされた。寝耳に水だった。私たちどうなるのだろうと不安な空気が社内を包んでいた。そして私の勤務していた部門ごと、アメリカの会社に買収された。。。
第2章へとつづく