堀之内聖と私14
大学卒業前から浦和レッズの練習に参加していた堀之内だが、これまでのサッカー人生とは違って、プロの世界は厳しいものだった。
同期の中で、坪井選手と平川選手は、鹿児島県指宿(いぶすき)のトップチームのキャンプに参加したが、残りのメンバーは浦和に残り、ユースの選手と練習をしていた。
当時、高校時代の堀之内の後輩に会った際に、彼は「ホリさん、人生初の挫折ですね。でも、あの人はこのままでは終わらない。僕ら後輩は彼の凄さを知っています」と言っていた。
堀之内のお母さんは「先生、自信がないんですね。今までは必ず1番前の真ん中を走っていたのに、今は1番後ろの端を走っているんです」と言っていた。
私は「いつか彼の良さを指揮官が分かるときが来る」と根拠のない自信を持っていた。しかし、初年度の2002年シーズンに彼が公式戦に出場することはなかった。
1シーズン目の出場は0だったが、解雇されずに2シーズン目を迎えた堀之内は、2月のオーストラリアでのキャンプに帯同することができた。しかし、そこで事件が起きた。キャンプでのトレーニングマッチで同じボランチのポジションの選手が負傷したため、ほかにボランチがいないから自分の出番だと準備していたら、監督のオフトが指名したのは本来センターバックの、しかもまだ大学生の後輩だった。
後に彼は、何か苦しいことがあると「心が折れそうになったらあのオーストラリアを思い出せ」と自分に言い聞かせた。
なぜ私がそれを知っているかというと、実は、私は彼に「オフトノートを作って、後でちょうだい」とお願いしていた。彼はノートでなくエクセルに200ページ以上、日々のオフトのトレーニングを事細かに書き(フィジカルトレーニングは図解つきだった)、データをプレゼントしてくれたのだが、その最後のページに「心が折れそうになったら、あのオーストラリアを思い出せ」と記されていた。
あの悔しさがあったからこそ、後の堀之内聖があったのかもしれない。“Everything happens for a reason.” 「全て起こることには理由がある」。顧問をしていたサッカー部員たちによく話したことば(このnoteのタイトルでもある)だが、悔しくて不貞腐れるのではなく、次へのエネルギーとした堀之内はその数ヶ月後に初めてJ1のピッチに立つことになる。