サッカー指導者として飛躍(浦和市立高校)時代27—ブラジルから帰って①
ブラジルに行く前に、せっかくサッカー大国ブラジルに行くのだから、行って帰って終わりにしたくなかった。当時は息子が生まれる前でビデオカメラがなかったので、浦和市立高校サッカー部OBの方にビデオカメラをお借りした。今のカメラと違って、とても重かった。
ブラジルでの前半の試合中心の時はビデオカメラは活躍しなかったが、後半のトレーニング中心の時はビデオカメラがフル稼働。撮影した数十時間に及ぶビデオを、技術編、フィジカル編、GK編と、それぞれ2時間ほどに編集した。当時はパソコンで編集する時代ではなかったので、編集するのは大変だった。幸い、浦和市立高校は放送部が全国大会の常連で、高性能のビデオ編集機器があった。部屋に篭って編集していたところ、放送部の顧問に話しかけられた。「これって20分に編集すれば賞が取れますよ」と言われたので「賞に興味ないです」と答えたら「ふくTさん、アピールって知っている?」と彼。きょとんとする私に、「これ。ただ編集したら、どんどんコピーされて広まって、誰が作製したかも分からなくなりますよ。だから最初にふくTさんの名前を入れなきゃだめ。それと、いい物なんだから、然るべきところへ持って行きましょう」と言われたので、「たとえば、サッカー協会とか?」と返事したら「そう、そう、そういう所」と言われ、なるほどと思って、埼玉県サッカー協会を訪れた。
当時、埼玉県サッカー協会の専務理事は元浦和南高校サッカー部監督松本暁司先生だった。草加東高校が選手権予選ベスト16になった時の抽選会会場で「あの方が有名な松本暁司先生か」と遠くから見ることしかできなかった畏れ多い存在だったが、勇気を振り絞って協会の門を叩いた。
ブラジルに行く前のセレクションや保護者説明会にも松本先生は来られていたので、初対面ではなかったが、気軽に話しかけられる人ではなかった。私は「ブラジルでこんなトレーニングをやって来ました。よろしければご覧になってください」と言ったところ、すぐに再生して見始めてくださり、4人1組でカラダを当ててブロックしながらボールコントロールする練習を見ながら「素晴らしい!こういう練習が大事なんだ。トレセンの練習はこういうのをやるべきだ。私もよく柔道場でレスリングをやらせたりしてカラダを当てるのをやらせた」と話され、それからかなり長い時間にわたって様々な過去の貴重な話を聞かせていただいた。
あのブラジルのビデオが松本先生のハートを鷲掴みにした。そして、サッカー協会訪問直後に、29歳にして、私は埼玉県サッカー協会の理事に就任した。「国際部長」という肩書きだった(松本暁司先生が要請すれば理事になってしまう、そういう時代だった。ちなみに、今では信じられないが、各都道府県サッカー協会の関係者の住所・電話番号が全て載っている冊子があった。川淵三郎氏や釜本邦茂氏のもあったと思う)。
この頃から、単なるサッカーを教えるのが大好き青年教師の運命が大きく変わり始めたのだった。