教師駆け出し(草加東高校)時代①
サッカー部の顧問になりたくて高校教師になった私が、どのような経緯で数十年後、浦和レッズサッカー塾というスクールでサッカーを教えることになったのか、教師人生を振り返ってみたい。
1989年4月、高校教師になり、サッカー部の顧問になるのが当然だと思っていた。ところが、校長に「水泳部でいいよな」と言われ、「嫌です」と答えた(後に先輩教師から「ふつう新任は言われた部活をやるんだよ」と言われた)。粘った結果、サッカー部の副顧問にしてもらった。当時はサッカー部に1人の顧問しかいないのは珍しくなかったので副顧問になれるだけで恵まれていた。
サッカー部の顧問にはなれたが、正顧問の体育科教師(私は英語科)に遠慮して、最初の1年半は、グラウンドにはいるものの、ほとんど黙って練習を見ていた。2年目の夏のある日、正顧問の体育の先生が「明日から指導して」と言って、自分は草むしりを始めた。あんなにやりたかったサッカーの指導だが、今と違ってネットもYouTubeもない時代、サッカー強豪校出身の人と会うたびにどんな練習をやっているか尋ねて、それを練習で試すという手探りの毎日だった。
1人がボールを触っている時間が短いと上手くなれないと思い、なるべく2人1組でボールを使ったトレーニングを行った。最初の頃は、1年生と私が2人1組になり、彼の胸にボールを投げると、ボールがこちらの手に戻って来ないのが当たり前だった。そんな彼らが、2年後に支部予選を突破して県大会に進出したのだから、やり甲斐を感じずにはいられなかた。毎日が楽しかった。
ある試合で、選手の1人がシュートを決めた後、ベンチの方に走って来て「先生、練習通りっすよ!」と叫びながらジャンプしたあのシーンは30年経った今でも鮮明に覚えている。
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