教師になる前(大学時代)10
大学に奇跡的に合格した私は中学のサッカー部の恩師にア式蹴球部(サッカー部)でやれるかどうか相談に行ったところ「4年で試合にもし出られたとしても、留年して5年生になる可能性が高い」と言われ諦めた(ここは素直に従った。高校時代に足首や腰の怪我が多かったこともあるが)。
4月4日、学部入学式が終わり、屋外に出たところ、1人の男が「君、いい目してるね。サッカーやらない?」と声をかけてきた。「サッカーやっていますけど、どうせやるなら1番強いところでやりたい」と答えたところ、「うち、1番強いよ」と言われ、チームがお世話になっていた喫茶店(当時は携帯もない時代で、その喫茶店に電話をかけて出欠の連絡をしたり雨天の練習場所の変更をママさんが教えてくれたりした。ノートが置いてあったので、空き時間にコーヒー1杯300円払ってノートに書いたり、それを読んだりしていた。アナログの時代)へ連れて行かれキャプテンから説明を受けた。
その後の新歓〇〇については、ここではなかなか書けないことばかり^_^
月、水、金と週3回の練習で紅白戦を3試合やるのみ(サークルなのでみんなが楽しまなければならない。試合をすることが楽しいから、紅白戦のみ。この紅白戦が真剣。時々胸グラの掴み合いも)。私は授業を優先して週1回しか練習に出ていなかった。1度練習を休むと次の練習が3本目になる。金曜日に1本目に出場していないと週末の試合に出場できないルールだった。つまり、月曜日に休むと水曜日に3本目、金曜日に2本目、つまり、週末の試合に出る資格を得られない仕組み。
前期が終わり、キャプテンに「ふくT、相手に大きい選手がいたらお前がやらなしゃあないやろ」と言われ、他の3年生に「80人以上のメンバーの期待がかかっているのに、それでいいのか」とプレッシャーをかけられ、後期に授業を切って練習に参加した結果、9単位落とした(3単位は実力で落としたのだが)。
授業を切って練習に参加した私だが、秋のリーグ戦に最初から試合に出られたわけではなかった。スタメンD Fの人が怪我をして出番が回ってきた。その人が回復すると別の人が怪我をし、結局、7試合中、5試合に出場した。最終戦で引き分けて得失点差で優勝を逃し、試合に出られなかった3年生が号泣しながら「ありがとう」と言ってきた時のことは58歳の今でも忘れられない。
私が高校サッカー部の監督をしたのは上尾高校の1年間と浦和南高校時代のU-16だが、大学時代のルールを適用した。その週に休んだり遅刻した生徒は週末の試合に出られないルール。
上尾高校ではキャプテンのGKが試合に遅刻し、出場させなかったし、浦和南の時は絶対的なエースがトップチームとU-16の両方の練習に出て疲れ切って寝坊をして試合に遅刻してきたので、強敵浦和東高校戦で使わなかった。代わりに出た選手の活躍で4-1で勝利した。
みんな納得していた。そして結果も伴っていた。