人生はセレンディピティ①
人生はいつどうなるか分からないものです。以前(いぜん)、私の武術(ぶじゅつ)の師匠(ししょう)である宇城憲治(うしろけんじ)師が「今を一所懸命(いっしょけんめい)生きていればセカンドライフは向こうから歩いてくる」と話されていたとき、教師(きょうし)として全力(ぜんりょく)で生きて行けば60歳で定年(ていねん)を迎(むか)えたときに、どこかから仕事(しごと)のオファーが来るのかと漠然(ばくぜん)と考えていました。しかし、そのときは7年早くやってきました。
私の教師生活(きょうしせいかつ)は平成元年(へいせいがんねん)にスタートしました。大学卒業前(だいがくそつぎょうまえ)の3月に、初任校(しょにんこう)である草加東高校(そうかひがしこうこう)に挨拶(あいさつ)に行きました。
校長(こうちょう)に「部活(ぶかつ)は何でもいいよね。水泳部(すいえいぶ)の顧問(こもん)が足(た)りないんだよ」と言われ「サッカー部の顧問(こもん)をしたくて教師を目指(めざ)したので、ぜひ、サッカー部でお願いします」と抵抗(ていこう)する私に、校長に「サッカー部は1人体育(たいいく)の専門家(せんもんか)がいるからいらないんんだよ」と言われ愕然(がくぜん)としました。その後、「次は3月23日に来てください」と言われ、「その日はサッカーの合宿(がっしゅく)のため大阪に行っていますので来れません」と伝えましたら、「今でも現役(げんえき)で動いてるのか?じゃあ、もったいないな」と校長が発言(はつげん)したとき、心の中で「よっしゃー!」と叫(さけ)びました。後でその話を先輩教師(せんぱいきょうし)に話しましたら「ふつう、新任(しんにん)は校長に頼(たの)まれたら素直(すなお)に従(したが)うものだよ」と言われてしまいました。あのとき水泳部(すいえいぶ)の顧問(こもん)を引き受けていたら、もしかして、どうすれば泳ぎが上達(じょうたつ)するか研究(けんきゅう)していたかもしれませんね。
サッカー部の顧問(こもん)になれたものの、練習中は一言も口出しせず黙(だま)って3時間立ったまま練習を見ているだけというのが1年以上続きました。ところが、2年目の夏休みに突然(とつぜん)、明日から練習を全て任(まか)せるね」と監督(かんとく)である体育の先生に言われました。
さあ、大変(たいへん)です。その頃(ころ)はサッカーがメジャースポーツではなかったため、トレーニングに関(かん)する本はありませんでしたので、全国大会出場経験(ぜんこくたいかいしゅつじょうけいけん)のある大学の同級生(どうきゅうせい)や後輩(こうはい)に会っては高校時代(こうこうじだい)のトレーニングについて質問(しつもん)する日々が続きました。
英語(えいご)の教師でありながら、当時の私の愛読書(あいどくしょ)は『トレーニングジャーナル』と『コーチングクリニック』でした。
この続きは次回、ではまた。