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『嘆きはレジリエンスを育む鍵』説を語る
スマホが突然、「ひと」を「女」と変換するようになったのですが、明らかに令和生まれの我がiphoneSEが、どこでこんなトレンディしぐさ覚えてきたんでしょうか。
お父さんは君にそんな言葉教えた覚えはありません。どうもhiRoです。
さて、私が自分の真実の願いであった「他者と深くつながりを持ちたい」「愛を受け取りたい」に開かれてから、なんだか私の周囲にも変化が起こっているように見える。
波動は感染るそうなので、もしかしたら私と接点の多い人の中で、真実の願いに開かれたいという同じ願いを持っている人は、呼応して変化が起こりやすくなっているのかもしれない。そうだったらいいな。
今日はそんな、ひとつの変化、というより私の目に見えるようになった事象から、学んだお話。
とある親しい人(仮にAさんとしましょう)から聞いたんだけどね。
詳細については本人に許可を得ていないので省くけど、要は、自信がない、とか、自分の辛い気持ちに気づきにくい、という話を聞いた。
Aさんは仕事がよくできて周囲の人にも慕われていて、とても努力家で温厚な素敵なひとなので、私としては「Pardon?」って感じだった。
だって、え、あなたが??ほんとに??
私はてっきり、Aさんは見た目も中身も可愛らしい人だし、周囲の人から大いに愛されている印象だったので、健全な自己肯定感を育んできたものと思っていたので、それを聞いてびっくりしてしまった。
のだが、まぁ私もこんだけこじれてるんやから、人間やしなんもないはずないわな、人間やし。と即座に納得した。適応能力。
もう少し尋ねてみると、Aさんは、うまくいっている時や、できたこと、努力が実った時などは自分の振る舞いを褒めたり評価したりはしているらしい。
しかし、痛い、こわい、苦しい、辛い、悲しい、寂しい、といった、いわゆるネガティブとされる感情については、無視していたと。気づかないようになっていたと。
ふんふん…って待て、どっかで聞いたぞその話。笑
というかそのまるで他人事みたいな語り口、大変身に覚えがあるんですけども。えぇ。
ちょっと前の我ですよね、それ。
ほんと俺たちったら、自分の気持ちに気づかないようにするプロかよー。もー。でも今までそうやって頑張って生きてきたんやもんね、仕方ないわねー。
思うことは色々あれど、聞いていて思ったのは、要は「嘆けない」ということなのかな、と。
嘆けないの中身は、「嘆き方がわからない」のかもしれないし、「安心して嘆ける場所がない」のかもしれないし、「嘆いてはいけないと思い込んでいるので深く自分に禁止している」のかもしれないし、「どうせ嘆いても無駄と思っている」のかもしれないし、その複数や全部かもしれない。他の理由もあるだろう。
それはじっくりAさんに訊いてみたり、知ろうとしないと、わからない気がする。
しかし、ですよ。ちょっくらあっしの話を聞いておくんなまし。
私は先日、大いに痛みを嘆いたからこそ、その裏にある願いがいかに本物で、いかに本気なのかを体感で知るという経験を得た。
その自分の経験を経た上で感じるのは、『嘆くことができてこそ、涙を拭いてまた立ち上がって歩いていけるのではないか。それも願いにより近い方向へ』ということ。
もしかしたら。嘆きは、心の傷の手当てなんじゃないだろうか。
これも私の体感だけど、傷ついた心を見ないふりして放っておいても、傷はいっそう痛んだり、時にはもっと悪化して深刻になってしまう。そうでない傷もあるだろうけど、願いに近いものほど深い傷になるんじゃないか。
転んで擦りむいた時に、清潔な水で洗い流して消毒するように、嫌だった辛かったと心の痛みを嘆くことは、手当てをして修復に向かうプロセスなんじゃないだろうか。
さらに私の感覚で言うと、傷は、絶対的に本人のものだ。それが傷であるか痛いかは、本人にしか決められない、決めちゃいけない。
どんなに人から見て「些細な出来事」であろうと、どんなに昔のもの(子どもの時とか)のことであっても、今もなお痛むのなら、いつでも嘆いていいと思う。
あの時辛かった。悲しかった。苦しかった。寂しかった。痛かった。
本当はこうしてほしかった。あれがほしかった。
そんな声に、平気になった今の自分、大人になった自分で、肯定的に優しい目線で、寄り添ってあげられたらいいのかもしれない。
うんうん、そうだね。
そう思ってたんだよね。痛かったよね。
今までちゃんと聞いてこれなくて、ごめんね。
これからも教えてね。ちゃんと君のこと、聞きたいって思ってるんだよ。
そうやって、心を抱きしめることができたら、その痛みは以前ほどは痛まなくなるんじゃないだろうか。
その嘆きの場に、自分と一緒に嘆きを受け止めてくれる、優しくて温かい仲間や友人や家族がいてくれたなら、なお素敵なことだろう。
そう、嘆くときは安心安全を感じられる場所でだよね。
嘆きを通じてまた傷ついたら嫌だもんね。
Aさんが、今日痛みの存在に気づいたことは、今までとは違う明日の始まり、希望の始まりなんだと心から思う。
もう半分くらい来たようなもんだよ。これからもその歩みを、どうか応援させてほしい。
人は痛みに触れて、それを十分に嘆けたとき、また立ち上がって歩いていける。以前より少し、強くやさしくなって。
そして、転んでも、痛んでも、きっといつかまた立ち上がれる自分だと知っていけるのかもしれない。
それを、粘り強さ、折れない強さ、レジリエンスと呼ぶんじゃないだろうか。
嘆きましょう。大人も子どもも。
私たちに痛みの感情があるのにも、きっと意味があるんだろうから。
嘆いて嘆いて、嘆きながら傷のかたち ーそれすなわち願いのかたちー を十分に確かめて、願いを掴んでそこに立って生きていけたら、きっと素敵な景色が見えることでしょう。
涙を流したあとの晴れやかな顔が、これからもたくさんたくさん、見られますように。