男性性の抑圧を発見した
さて、昨日は守る力に開かれたい私への、派手派手な宇宙からの応援報告を書きました。
願いに開かれて、こうやって道が整っていくときの現れ方って様々で。
現象レベル、物質レベルでばーんと目の前に来る時もあれば、もっと微細に
感覚の変化 ー物の捉え方や感じ方、見え方や、目に止まるニュースや事柄が変わる、ひらめきや気づきが頻繁に起こるなどー
といった形で、自分の内面が組み変わっていく感じを実感する時もある。
なので、「発信や表現の仕事が来ました!」みたいな一方で、新たな気づきが頻繁に起こったり、一見課題に思えることが目の前に現れたり、明らかに後押しされてるよね?みたいな現象を垣間見る、的なことも同時に起こってたりします。
おっもしろいよねー。
ほんと人間って全体の中のひとつ、我々は全てつながったホログラフィックユニバースに生きているのだと体感で学んでいるよ。
さて。
2-3日前に、どーん!ってでかい気づきが起きたので書き残しておきます。
なんと。
私さ。
めちゃくちゃ男性性を抑圧していたことに気がついた。思ってたよりずっと強く。
これは前から思っていたことではあるんだけど、力に開かれたいって望んでから、これは明らかに引っかかりポイントになっている!ここどうにかせねば!!ってことに一段深く気がついたのね。
男っぽいアグレッシブな要素、いわゆる攻撃性とか怒りとか勢いとかリーダーシップ、お金儲けや権力や影響力やモテなど、そういうものって長らく私には、暴力と不可分なものだと感じられていた。
男性性の力を発揮することは、どこかで誰かを傷つけたり、搾取したり、抑圧したり、傷つけたり、踏みつけたり、脅かしたり、そんな風にしか発揮できないんじゃないか。
そんなことになるくらいなら、私は力なんていらないよ。
無害で無欲な私でいいよ。
そんな風に自分の力を抑えてきて、自分でもそれでいいって思ってたんです。
でもそんな風に無力じゃ、自分が大事にしてるものが脅かされたり、自分の大事な人が傷ついたときに、怒ったり守ったりできないんだと知った。
そして私は、自分が無力であることに対して深く痛んでいるのだと、気がついた。
自分はトランス男子で、男性性を発揮するということに対して事例やイメージが少ないし、男性性が自分の中にあることについて、どうやって折り合いつけたらいいのかわからなくて戸惑ってもいたけど。
この度『大事な人たちを守りたいんだ、その人たちが幸福に生きられる世の中をつくりたいんだ』って願いに繋がって、そこから力を発揮できるなら、それなら私、力がほしいなって自然に思えた。
いま、私は、自分の男性性も大事にしたいって思っている。
もっと人から憧れてもらえるくらい、あんな風になりたいって思ってもらえるくらいカッコよくなって、バリバリ世の中に自分の力を発揮して、励ましや勇気や希望のメッセージを届けられるくらい強くなりたい。
それは、大事な人や大事なことを守るために。
愛のために自分の影響力とか、強さに開かれたいって願いを見つけてしまったわー。
あらぁー!いいやないのー!!(突然の大阪マダム)
そう思ってから、なんとなく感じていることがある。
たとえ力を発揮しても、愛と願いから発揮される力は人を傷つけないんじゃないか、ってこと。
「自分だけがよくなりたい」「自分だけが成功したい」っていう利己的な思いからの力は暴力的になる気がするけど、真に愛や願いに立って、意図の下で注意深く発揮された力は、暴力にならないんじゃないかな。
真実から語られる願いが、炎上や反発や分断を生まないように。
むしろ痛みを癒やし、繋がりを結び直し、目の前の人が真実に立つことを励ます効果があるんじゃないか。
これ多分やけど、どこかで確信がある。
『愛と真実の願いから発揮される力は、人を傷つけない』
これから私は、それを証明していきたい。
今回の人生で思いっきり、やさしくて強い人になりたいのです。