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ぼくらはみんな見られたい
最近、連日思ったこと感じたことを分かち合う時間を持っている。
真実のつながりの中で生きたいと願ったからか、明らかにそんな体験を味わえる時間が日々の中で増えた。多分意識無意識総動員で、願いの方に私の生活や選択を寄せていってるんだと思う。
現実化してるね!いいね最高!
こうして願いが叶っていることに気づけたら、願いを叶えられる自分の力への信頼が増していく。
意識にあげるってすごく大事だと思うし、こうして書くこと(多分しゃべることも)は、感じていることを意識にあげて言語化する作業が必然的に入るので、本当にいいトレーニングになっていると思う。
さて、今日は先日のシェアの中の一コマから。
その人は、はにかみながら言ってくれた。
「何も話すことはないけど、でも、皆に見てもらいたいって気持ちがあって、でも見てもらうには何か話さないと、皆の意識を引きつけないと、なんかいいこと言わないとって思ってる」
それを受けた我々は、なるほどー!となって、口々に
「見られたいって思っていいよ」
「聞かれたいって思っていいよ」
って言って、ただただニコニコとそのひとを眺めた。
見られたそのひとは恥ずかしそうだったけどすごく嬉しそうで、かわいい笑顔でそこにいてくれた。
見られる、聴かれる、意識を向けられることを望む気持ちって、もしかしたら人間にとってすごく原始的というか根源的なものなのかもしれない、なんて思う。
赤ちゃんは、意識向けてもらわないと、見てもらえないと生きていけないしね。
子どもと接してても、見られる、聴かれるニーズへの渇望がすごい。
なんせ気を引こうとする。見てもらおうとする。
それだけ、見てほしいという欲求の深さと、見てもらうということがどれだけ安心感につながるかを実感する。
でも、生きていたら当然度々その願いが叶わない時があって、そんなときにいろんな形で痛みが現れるみたい。
痛みをなんでもないことのように笑って話したり、あえて軽く扱ったりしてやり過ごそうとしたり。
やっぱり気を引こうと、問題を起こしたり荒っぽく反抗したり、あるいは自分自身を落としたり、あえていじられキャラに仕立てたり。
こどもはもちろん、大人だってたくさんそんな時がある。
私の中にも、そんな自分もいる。
小さな私よ。
そして小さなあなたよ。
私たちは、なにもなくても見られていいんだよ。
見られたい、聞いててほしいって思っていいんだよ。
願っていいんだよ。
たとえもう体が大人になっていても、どんなに年を重ねていても。
見られていい。聞かれていい。
きっとそれは、人が人であるなら必要なことなんだと思う。