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つながりを守るため、小さな私は無力になった
最近観て胸にぶっ刺さったやつ。
鱗、あまりにもよくないですか。
* * * * *
さて。ここ最近で私的ホットな話題、「パワー(力)」。
前回記事と定義の説明が被るけど、再度示しておきます。
私の思う力とは、知識、技術、お金や豊かさ、社会的地位や影響力、心身の健康、協力者や賛同者や仲間の存在などなど。
いわゆるこの世的なパワー全般を指します。
何となく気づいていたことだけど、ここ数日で何度も力にまつわる気づきが起こったので、時が来たか、という感じ。
しっかり目が向けられるようになってきました。
私は、力を身につけることを、自分に長らく許さないできた。
それはなぜかというと、
「力を得てしまうと、大切な人を傷つけるかもしれないから」
「力を得てしまうと、ケアされない、構ってもらえないから」
「力を得てしまうと、『1人で大丈夫だね』と見放される、ひとりぼっちになるから」
こんな風に、つながりを得るならば、力を手放さなければいけない、つながり(愛)と力がトレードオフだと捉える観点を持ってしまっていたから。
なんてこったい。そんなはずないのに。
この間違った考えには割と前から何となく気づいていたけれど、うまく扱えない、この思い込みから自由になれないでいました。
しかーし!!この度私は偉大な気づきを手に入れたわけです。
「つながりは出逢いの段階で達成されている。たとえ別れがあっても、つながりの価値は失われない、なくならない、消えない」
ここに確信を持てた。つまり、トレードオフが崩れた。なにがあってもつながりの価値はなくならないんやから。
つながりに条件はないので、「力を持てばつながりから切り離される」という条件付けが外れた。
ので、豊かになることや、身体的社会的に力を持つことに開かれそうだと感じている。
今までは、力を持てば誰かを傷つけたり、孤独になるのではと怯えて無力でいることを選んでいた。
でも、つながりや存在の素晴らしさを信じる今の私は、力を持っても愛されるし、つながりの中で生きていけると知っている。
私は力を持っても、人を虐げたり、自分が他を押さえて一番になることを目指したりしない。大事な人を傷つけない。
むしろ、私が心からその大切さを信じている、『自分やひとの真実の願い』『深いつながり』を守るために、強くなりたい。
守るために、豊かになっていい。強くなっていい。
豊かでも、稼いでも、バリバリ働いても、超健康でも、つながっていられる。つながっていていい。
むしろ強くなった方が守れる。つながりをより深められる。
そんな風に思えるようになりました。
これもかなり画期的なこと。
こんな風に思えるようになってから、自分が今までハマっていた古い思い込みの構造が見えるようになってきたんです。
一体、愛と力のトレードオフの思い込みは、いつから始まったのか?
どうやらそれは、親との関係に遡るようで。
きっかけは、パートナーシップの学びの中で教わった、『パートナー間では必ず、親との関係を再創造し、「子どもの頃と同じやり方で」勝とうとする(欲しかったものを得ようとする)』という知恵。
これは自分の関係性創造のやり方やパターンを変えるために起こること、と教えてもらったので、今後のパターンを変えるために、「親はどんなかたちで私を愛そうとし、私はどんなかたちで親と繋がろうとしたのか?」を考えてみました。
するとまー、色々と思い浮かぶこと。あらあら。
(あ、ちなみにあらかじめ言っておくと、私はかつてわだかまりタイムがあったものの、今は親が好きで大事だし、恨んだりもしてません。
親も私もいろんな知識や経験が少なくて、愛の表現やつながりのニーズの満たし方が分からんかったんやなと今は思う。
なので、責める気は毛頭なく、過去のこととして振り返って気づいたことを残すという意図で書いています。)
ポイントは、『私は親に、無力で傷つきやすく、守らなければならぬ子と見なされ、そのように接されていた(っぽい)』ということ。ど直球で訊いたことないからわからんけど。
具体的にはこんな感じ。
・たくさん習い事をさせる
・中学受験を勧める(受験勉強や進路選択の悩みを先回りして取り除いた?)
・腫れ物のように遠巻きに見守り、親の気持ちも言わないし私の気持ちも尋ねない(下手に関わると傷つけるかもと恐れがあった?)
・門限などが厳しい(その他、友人宅への宿泊禁止、自宅に友人を呼ぶことにあまり賛同しないなど)
・お金をたくさんくれる、会うたびにものを持たせる
過保護とまでは言わないけど、なんせ「派手に転ばないように」育てられてきたように思う。
そして小さな私は、当然親に庇護されて生きていくために、その設定を受け入れたわけです。
取った戦略は、「無力で、病弱で、いつまでも自立しない」こと。
つまり力を手放すことで、親に愛され親とつながることを、選択した。
しかし、なんだか違和感があったんでしょう。
私は学生時代に何度か、門限を派手に破っています。
一度、高校生の頃に、焦燥感と言えるほどに「強くならなきゃ!」と思って、一人で決めて空手教室の体験に行ったことがあります。
夜遅めの体験で、その時に運悪く、携帯の充電が切れてしまい、家に連絡ができませんでした。
22時頃に帰宅した私はかなり叱られ、その時に親に言われたんです。
「あなたがこんなのだと、これから信用できなくなってしまう」
これは効いた。強烈に痛かった。
この件があってから、私は自分の「やりたい!」への信頼を少し失ってしまいました。親を傷つけ悲しませるくらいなら、やりたいことなんてなくていい、って。
今でも覚えているほどに、あの言葉が痛かった理由が今はわかります。痛みと願いはセットだから。
私は、親に、信用して欲しかった。
私の力を信じるという形で、愛して欲しかった。
弱いと決めつけて先回りして決めないで、私が私の道を選ぶ力があることを信じて、尋ねて欲しかった。
私を知って欲しかった。本当の私を見て欲しかった。
あらかじめ石を退けるんじゃなく、実際に転んだ時に、頼りたかった。その時に助けて欲しかった。
弱った時に守られることは、もちろん安心感があります。
でも、そうでないときは、私はくじけない勇敢な魂を持っていると信じてほしい。
私に私の願いを叶える力があると信じてほしい。応援してほしい。hiRoならできると言ってほしい。
そんな愛され方をこんなにも望んでいることを、知らなかった。
私はもう大人になったので、まずは自分が一番、自分の力を信じてあげたいと思います。
つながりを求めて、力を抑え込むのはもうやめます。力を抑えることと、つながりを得ることは無関係だから。
むしろ、真実の願いを明かした自分でいた方が、真のつながりを得られると知ったから。
自分の力を信じ、誇り、それを増していくことを楽しみ、そして、大切なものを守るために使うことを喜びたい。
これからきっと、私は私の力を解放し、どんどん健康に、豊かに、やさしくなっていくことと思います。
自分が一番、未来の自分に会いにいきたい。
つながりに開かれた世界は、すごくすごく、美しかった。
やさしさのための力に開かれた世界の景色は、どんな色だろうか。
今からそれが、楽しみです。