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それでも時に人生はギフトをくれる

先に書いたサバイバーの自覚は、実は癒しと共に起こった。

というより、自分の中が癒されてきたことで、サバイバーであるという痛みを引き受けられるだけの自分になってきた、という感がある。

痛みに自覚的になり、痛んでいることも否定せず、でもそこに執着もせずに別の選択ができる。
痛みをないことにしないと生きてこられなかった時から、痛みをあると認識しても生きていけるようになった。人生が進んでいると感じる。

トランスの仲間との対話で、歓迎されない、ないことにされ続ける自分の気持ちや欲求について気がついた。
その痛みを、俺が気づくより早く俺を救済してくれたひとがいた。

それは、吾郎さん。

もちろんここに至るまでに、多くの友人知人家族たちの温かい関わりがあったし、それによって生きてこられた。
でも最後の一押しが、数日前の吾郎さんとの対話で起こった。

詳細はちゃんと書きたいが、起こったこととしては、自分の、会いたいとか一緒にいたいとかの「関わりたい」という気持ちや欲求を、喜んで受け取っている人がいる。俺が相手を求めることを求めてくれている人がいる。という衝撃だった。

自分の気持ちや欲求なんて、迷惑をかけるばかりだと、ない方がいいと思っていたのに。

そうではなかったの?
俺があなたに関わりたいと思うことは、あなたの喜びなの?
あなたに迷惑をかけるのではなく、それが欲しいと思ってくれるの?

もう何回も確認した。びっくりしすぎて。

吾郎さんは言葉でちゃんと伝えてくれた。
それも、嬉しいというよりは想定外すぎて呆然として聞いていた。

数日経って思うのは、存在や気持ちを否定されないとか、そこにいることを許される、そこにいていいという体験はしていたけれど(そして必要な分だけ癒されてきたけど)
気持ちや欲求、すなわち自分のままの存在を、「積極的に歓迎され求められる・喜ばれる」という体験を、自覚的できるような形ではっきり与えられたということかもしれない。

俺が、「自分から関わりたい」と願った時、それくらい力強く俺に関わってきてくれる存在が必要だった。
関わられることのインパクトを、自分で体験する必要がきっとあったんだろう。

俺は、親も関わりにエッジのある人で、俺が困っていたりしても、見守るスタンスをとることが多かったように思う。周囲の大人は大半そうだった。

もしぶつかったとしても傷つけたとしても、関わること、踏み込むことを選ぶ、という人に、あまり出会ってこなかった。
あっ、でもパートナーシップを辿ると、踏み込む系の人に恵まれてきたかも。

そしていま、素直で愛情深く、自分から愛するスタンスを持つパートナーに恵まれて、最後の一押しがあり自覚に至った。

拒絶や否定や無視に、傷ついてきたこと。
そしてそれでも諦められないくらい、求められることを求めてきたこと。
痛みに出会うことは、自分のほんとうの願いに出会うことでもある。

親も親の形で深く愛してくれてきたし、
友人や仲間も本当に温かく接してきてくれた。

それでも、俺は欲しがっていた。
もっと強く、はっきりと、自分を求めてもらうこと、喜んでもらうこと。
仕事や活動では満たされてきたように思うけど、パートナーシップという何者でもない自分でもそれが体験できると、なんだかまた違った心持ちになった。

俺の師は言った。
もしも誰にも求められなかったとしても、自分は自分を求めている。
自分の中に、自分自身を歓迎し求め喜ぶ人を育てていけばいいんだよ、と。

それを教えてもらえたことは素晴らしいことだったけれど、それでもやっぱり、他者から与えられる体験は、すごく力強く俺を支えてくれる。

この体験はずっと残るだろうな。
忘れないだろうな。
もし、年を重ねて吾郎さんを見送る日が来て、体はひとり地上に残ることになったとしても、多分与えられた体験は、ほんとに忘れないだろう。

自分の中にも、自分を歓迎する人を育てていく。
でも一方で、求められる機会に恵まれたことを、もっと味わうことを許したい。

もう信じられなくて、まだまだ受け取れてないから。笑

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