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素晴らしい世界を、愛する君に贈りたい
本日、師の一人から個人コーチングセッションを受けて、色々と出てきたのでメモしておきたい。
今回私がセッションを受けたのは、
・最近のLGBTQ+へのヘイトのニュースや、トランスジェンダーバッシングの流れに胸を痛めて、仲間を守れない無力感を感じていること
・次から次に積み重なる痛みに囚われて、私自身希望が見えなくなっていること
について、打開策や助けを求めてのことだった。
人からは、「そんなに無理しないで」とか「休みなよ」とか言われるけど、私にとっては日々のニュースは、自分が刺されるように痛く感じていて、休むのも難しい。
本当にこの状況をどうにかしたいのだと願う、その切実さを誰かにわかってほしい、という思いもあった。
師とのやりとりの中で特に心に深く残っているのは、環境哲学者/活動家であるジョアンナ・メイシーの話。
ジョアンナは、社会変革を志して活動する活動家たちが、バーンアウト(燃え尽きて変革の活動から離れること)していくことについて考える中で、ひとつの考えにたどり着いた。
それが、『社会変革は、痛みから始まる』ということ。
私が社会の変化を望んだ理由である痛み、そしてその痛みを通じて愛につながること、それを何度だって繰り返すことが、変革の願いの火を絶やさずに進んでいける道なのだという。
私が変化を望んだ痛みについて問われたとき、たくさんの家族友人仲間たちの顔が浮かんだ。
そして最も強く浮かんできたのは、元パートナーと、今年の春先に旅立っていった友人の顔だった。
私は皆を、そしてことさら元パートナーや友人を、愛していた。
いや、愛している。今も。深く。
それは恋愛とか、友情とか、言葉に収まるものでは到底なくて、その存在がどうか脅かされませんように、傷つくことなく、毎日幸せに笑っていられますようにという、祈りにも似た気持ちだ。
私がその人たちと過ごしたひとときの中で、我々が「セクシュアルマイノリティであるから」被った痛みがたくさんあった。
それはあまりにも辛いものが、たくさんあって。そして私は思った。
私の愛する大切な人が痛む世界なんて、間違っている。
あのひとたちは、誰が好きでも、どんな服装や髪型でも、それが自分らしいと望んだならばその全てが祝福されるべき、大切なひとたちなんだ。
それが許されない世界なんて、おかしいんだ。
私の愛するひとたちを、傷つけるな。脅かすな。
全てのひとたちが、特に私の愛するあの人たち全てが、好きな服装で、髪型で、外見で、好きなひとと手を繋いで歩ける世界にすること。
全ての人たちが、自分らしいと感じる姿で、安心して日々を生きられる世界にすること。
そのために動くことは、私なりの愛情表現なんだと気付いた。
今はもう一緒にいない私たちが、ただのカップルとして過ごせたはずの世界をつくること。
旅立ったあの子が、生きたかったはずの世界をつくること。
それが、私のできる愛情のかたち。
君たちを心から愛していると示すこと、君たちは世界から大切にされるひとなのだと伝えること。
そう思っているから、たとえそれがほんの少しのことであっても、世の中を変えることに関わり続けることを諦められない。
それを諦めることは、私が私の愛を諦めることになるから。
そんなこと、できない。
これをボロボロ泣きながら話して、ちょっと自分でも『重っ!!!』って引いた。笑
いやだって、世界平和こそが愛情表現て…我ながらスケールがでかいわ、どういうことなん…。
でも仕方ない、これが本音なんやもん。
今も思い出して書きながらボロボロ泣いてる。スタバの正面のお姉さんごめん、気になるよね。笑
師は、ゆっくり頷きながら聞いて、微笑んで言ってくれた。
「hiRoくんは、根っからの社会活動家なんだろうね」
そう言われて、そうなんだろうなと思った。
適性がありすぎるだろうよ。
ここまで聞いて、師は私にいくつかのアイディアを渡してくれた。
●発信する者/表現する者になること
仲間を励まし続けること。幸せになっていいと言い続けること。
望む世界を語り続けること。
そしていずれは、こんな風に幸せになれる、と、自ら体現するものになること。
生きたい世界を、生きる者になること。
●愛と願いに立ち、守るため・理想を実現するための男性性に開かれること
私は『男性的なアグレッション』を、「それこそが世界を壊し平和を遠ざける諸悪の根源だろう」と感じている点がある。
男性性=暴力や破壊 と捉えて忌み嫌っていて、男性性を発揮することが破壊につながるなら、そんなものいらない、と自分から遠ざけている節がある。
でも、物事を進めていく力や形にする力、実現する力を、破壊や暴力という発露ではなく、愛と意志を持って発揮できるのだとしたらどうか。
まだその具体的な道のりは見えないけれど、まずは『私は、愛するものを守るために思い切り力を発揮していい』と自分に許すところから始めていきたい。
することが見えないと多大なフラストレーションを感じやすいので、上記のように道のりのきっかけを示してもらえてホッとした。
よかった。願いに向かう道はあるんだ。
こうして今日も、助けを得ながら進んでいけることが幸せだ。
なんとも厄介で、体力を使う道だけど、これが私の愛すべき道なんだろう。