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夫の日記はパンドラの箱だった

私たちは、入籍してからしばらくして、2人の会社へのアクセスが良いところへ引っ越しました。

私たちが選んだのは、家主がそろそろロンドン駐在から戻ってくることがわかっている分譲マンションを期限付きで貸りること。広さ・立地・設備に比べて随分安く借りることができたから、2人ともとっても喜んでいました。

ただ、この引っ越しは、私にとってはあまりいい思い出にはなりませんでした。

大人2人だけの生活って本当にラクで楽しく、私たちはDINKS生活を満喫していました。引っ越しだって2人の青年だけなら大変なこともないわけです。私たちはすっかり呑気に構えていて、引っ越しの準備もそこそこに、「夏にはアラスカに行こうか?」なんて日々ワインを飲みながら話していた矢先、引っ越しのほんの2週間前に私の妊娠が判明しました。なんだかいつもと体調が違うので、もしかして・・・と思って妊娠検査薬を試したのがきっかけでした。夫の「子供が欲しい」を受け入れた直後に反応した妊娠検査薬の赤い線に「こんなことってあるんだ」と、びっくりしたのを覚えています。

あれよあれよという間につわりが始まって、いつも雲の中にいるようなぼんやりと眠い頭と体に戸惑っていたら、ある夕方にほんの少しショーツに出血があることに気が付きました。心配になり近くの病院にかかると切迫流産の恐れがある、大量出血すると辛いから自宅で安静にしていたら?と自宅安静の指示のついた診断書を出されました。

よく晴れた梅雨前の、からりと暑い5月の日でした。こういう時、女性は体と心と仕事をどう扱えばいいのだろう・・・。そんなことを考えながらお会計を済ませて外に出ると、夫は第一声、「ええ!?なんでこんなに費用が高いの!?なんで!?」と私から手渡された診療明細を見ながら独り言を呟き、私の方をチラリと見ることもなく歩き出しました。

かかった病院は殺風景なところにあり、すぐ横にはあまり往来が頻繁でないけれど時々来る車は暴走してくるような、田舎によくある古びたアスファルトの道路で、その向こうには線路が通っているのか高いグレーの薄汚れた防音壁がずーっと続いていて、緑の逞しい雑草がしっかりとその手間の土手と壁に張り付いていました。黄色く降り注ぐ日差しと、真っ青な空、私を振り返ることもなくすでに数メートル先を歩いている彼の影がやけにくっきりアスファルトに映っていて、物悲しいような乾いたような感覚とセットで、その景色を今でもはっきり覚えています。

「ねえ、私とお腹の中の命の心配もせず、お金のことばかり言ってるのは、どういうことなの?」と彼に追いついて腕を取って言ったのを覚えています。でも、彼は、やはり私を見ることなく「費用高くない?こんなに高いの?」と繰り返し言うのでした。検診費用が高くつくことは私は事前に調べて知っていたので「高いものなんだよ、調べてみたら?」というと、徐に彼はスマートフォンの画面がよく見えるように民家の影に入り、iphoneで検索をすると、ようやく納得をしたようでした。私は少し痛むお腹を押さえながら、日差しの中にひとり立ち尽くして、そんな彼の一部始終をぼんやりと見ていました。私たちは共働き夫婦で、裕福ではないですが、お金に困っている2人ではありません。好きに飲んで食べて十分貯金ができるDINKSです。それでも、彼は私の体や赤ちゃんよりも診療費のことが気になるんだ・・・正直とても寂しくて不安で悲しかった。

結局、仕事を休むことができなかったので、体に無理がないように通勤しながら引っ越しの日を迎えました。夫はもちろん私の状態や医師からの指示を知っていたのですが、私にも普通に引っ越し作業を任せてきました。友達は「引っ越しなんて旦那さんに任せて寝てなきゃダメだよ。」と心配してくれたのですが、彼はまるで私がいつもの私であるかのように、私に荷物を詰めさせ、運ばせ、掃除をさせ、ひとしきり指示を終えると運転手と一緒にトラックに乗り込んで行きました。ひとり残された私は2時間ほどの距離を一人で電車移動しました。下腹部の痛みがつらく、出血しないといいなあとぼーっと電車に揺られていきました。その夜、つわりが始まった重い体と、初めての妊娠と切迫流産というショッキングな出来事に不安を覚え、まだ整理がつかない心を抱えながら、なんとか引っ越しを終えたものの、今から思えば、「この人とはやっていけないかも、やっぱり少し変だ」とはっきりと感じ始めたのは、引っ越し先の見慣れない景色と新しい部屋の中に一人で座っている時だったように思います。

引っ越しの数日後、会社で強い腹痛と共に何かが流れ出す感覚があり、トイレに駆け込むことになりました。真っ白なトイレに真っ赤な真っ赤な鮮血が滴って、血の塊なのか胎児なのかわからないものも落ちていました。「赤ちゃんだったらどうしよう。」その塊を躊躇なく便器の中から拾ってハンカチに包み、私はすぐにオフィスを飛び出して病院に駆け込みました。そして、はっきりと切迫流産との診断を受けました。そして、医師からは絶対安静を厳しく指示されて、会社を休むことにしました。

新しい家に越して1週間の後に診察に行くと、「赤ちゃんの心臓が止まっている。この前、あんなに出血してても元気だったからすごいなあって思っていたんだけど・・・。」と医師から稽留流産の宣告を受けました。そして、翌週に手術をして数日後会社に復帰しました。

流産はある一定の確率で起こるものと知っていたので、そのこと自体は冷静に受け止められたのですが、体の変化と周囲の対応に、私はその後とても苦しみました。

数週間の安静だけで、すっかり体力が衰えてしまっていることの衝撃(通勤ですらきつかった。体力が急に落ちると人間気弱になることを知りました)、流産手術後の夫の言動、会社の上司のプライバシーへの無配慮(これらはまた詳しく書こうと思います。)。

そして衰えてしまった体力を取り戻すこと、半年後に控えた結婚式の準備、新婚旅行の計画などをこなしていると、リビングなんかはぱっと見整っているものの、押し入れの中は段ボールやら夫の謎の箱が山積み状態のまま放置されっぱなしになっていました。

ようやく結婚式と新婚旅行を終えて、一息ついて、さて、和室の押し入れの整理をしようかとふと思い立ったある日の午後、乱雑に置かれていた箱を開けると、夫のものだと思われる綺麗なRollebahnのノートが2冊出てきました。

夫は、未使用・使いかけのノートを沢山持っており、綺麗なノートがあると「よかったら使って。」といつも私にくれていました。なので、この時も、ほぼ未使用に見えるノートの表紙を見て、「あ、また私にくれるノートが出てきた」と、軽い気持ちでパラパラとページを捲ったのです。

すると、私の予想に反して、そこにはびっしりと文字が書き込まれていました。罫線の一番上からスペースなく文章が書き込まれ、それがずっとずっと続いていくんです。これまでも夫の資格試験のノートや会社で作成したメモを何度か見たことがあったのですが、空白の多い本当に必要なことだけ記したあっさりとした書き方で、それは、私が彼に持っている人物像に重なるものがありました。なので、目の前にある細かな文字で埋め尽くされたノートは私の知らない誰かが書いたような気がして、私はついしっかり内容を見てしまいました。

パンドラの箱は、案外あっさりと開くものです。私の知っている人物の名前を所々に交えて、彼の心の動きと女性たちとの生々しい記録がそこには事細かに書き込まれていたのです。


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