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あのとき何が起きたのか

2019年、命を失いかけた。
一年が経過した。入院中のメモを元に書き起こし記す。

2019年9月22日

最初の自覚症状が出る。
左肘あたりが痛む。虫刺されのような小さな斑点があった。

2019年9月23日

業者との打ち合わせのために名古屋に向う。最寄り駅から特急に乗り込んだときから悪寒があった。名古屋駅に到着したが目眩も感じられ、業者にはキャンセルの旨を伝えた。栄養を摂るため吉野家に入った。いつもより多めに牛丼を食べた。特急で最寄り駅へ帰着した。

左手の痛みがひどく、自己判断で痛風の発作だと思い込んだ。痛み止めと頓服薬を服用した。

夕食にはスープを多めに作った。
夜になっても痛みが引かない。尿意があるもののまったく小便が出ない。救急車を呼ぶことを避け、翌日診察を受けようと判断した。

2019年9月24日

朝から体がしんどい。
とにかく皮膚科の登録をおこなう。上司(医師)にも相談した。

自席に座っているのも辛くなる。PHSを持っていったん帰宅した。さいわい自宅でもPHSは届く。飼い猫はいつも通り。昼過ぎになってPHSが鳴る。

診察室で待っている時間が長かったように感じる。座っていることができずベッドに横になる。先生は腕を見るなり入院と手術が必要と。僕はまだ深刻さがわかっていなかった。家族にはとりあえず入院する旨だけを伝えた。

慌ただしく様々な検査をおこなった。便が緩くなるなど全身が不調だった。救急外来で処置を受ける。夜になり家族が来た。両親が説明を受けている。そのあいだ息子と色々と話をした。説明が終わると息子たちは僕の自宅に向かった。家の鍵が合わないという電話がある。間違って隣の家に入ろうとしていた。表札を確認するように伝えた。無事に入れたようだ。

曖昧な記憶

翌日からの記憶は確かなものではない。病院の皆がきてくれたような記憶がある。大学病院への移動の記憶だけがはっきりしている。他は曖昧である。

せん妄?

現実味を帯びた記憶が残っている。
病院に何か重大なことが起きた。 Web 会議をおこなう。「これからはこういう時代」と僕はいった。買ったばかりの iPhone で。どこかに飲みに行った。処置を受けたあと建物の屋根に寝かされていた。よくわからない空き室に寝かされていた。真剣に考えればあり得ない。

療養施設で両親と会った。結婚式場のような部屋に寝かされていた。建物は山奥で紅葉がみえた。院内のカフェで誰か女性と一緒だった。想像力が作った記憶が様々残っている。

記憶の中の僕は体が不自由で思い通りに動かせない。喉には何かが入っている。あとで聞いてみると僕は常に喉から管を抜こうとして困らせていた。記憶が正しく残っているのは10月中旬を過ぎてからだろう。

真実

親父が見舞いにきた。声を出すことがほとんどできない。会話にならなかった。息子の写真を持ってきてもらった。運動会の写真。よく見えるところに貼った。

10月16日に当院に戻れることが決まった。しばらくの間はそれを楽しみにしていた。ところが15日の夜の検査で胸の中にモヤモヤが写る。処置が必要とわかった。高圧酸素治療が必要だった。鼓膜に穴を開ける。高圧酸素治療は密閉された容器の中に90分間入る。この90分間は非常に苦痛だった。僕の呼吸はまだ正常ではなかった。

治療が三日間続いたとき、先生に自分に何が起きたのか説明をお願いした。先生は白黒の写真などを使いわかりやすく説明をしてくれた。同時に高圧酸素治療が終了したことが伝えられた。制限食ではあるが食事も取れるようになった。食事はテレビカードが切れていた僕の楽しみになった。

2019年10月21日。ついに当院に戻ってくることができた。病院救急車のロゴを見たとき思わず涙があふれた。

あのとき何が起きたのか

僕は壊死性筋膜炎にかかった。感染すると急激に症状が進む。たった2日で左手と左胸の一部が壊死した。小便が出なかったのは急性腎不全に陥っていたため。敗血症も合併していた。当院に戻ってしばらくのあいだ肺炎の症状もあった。

処置では左手と左胸の壊死した組織を除去した。後に聞いたところでは当初は左手は切断という判断だった。形成外科の先生が処置後の状態管理を大学病院で行うことを提案してデブリードマンとなり、左手の機能が残った。
2019年11月15日。背中から皮弁を移植して再建手術をおこなった。左胸の傷は自然治癒で塞がった。

寝たきりの期間が長く歩行が困難になった。敗血症で筋力が急激に落ち、段差を上ることも厳しい。リハビリ(理学療法)で元の状態に回復した。

左手は機能するが完全ではない。可動域が狭まり、力が出ない。体を支える動作が難しい。リハビリ(作業療法)で日常生活に支障がない状態に回復した。リハビリは2020年現在も継続している。

挿管の期間が長く発声が困難になった。声が出なかった。意思だけが先走っていた。講師の仕事は不可能に思えた。リハビリ(言語療法)で元の状態に回復した。

今なら笑い話にできるが「今夜が山だ」と聞いた同僚もいる。事実、さいごかも知れないと子どもが入れない病室に息子も呼ばれた。たくさんの機器に繋がれた僕に息子は近づけなかった。多忙で長らく帰省していなかった弟すらきていた。僕は気付いていなかったが従姉も駆けつけていた。

結びに

自覚症状があったのに痛風と勝手に判断した。救急車を呼ばずに一日待った。判断の誤りが事態をより深刻にした。自己判断してはいけない。信頼のできる医療機関に頼ることが大切だ。

先生たち、同僚、駆けつけてくれた友人たち、そして家族には感謝してもしきれない。本当にありがとうございました。


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