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メジロに呼ばれて(第5回引きこもり文学大賞 受賞作)

 肌寒い季節が近づくと、庭にメジロがやってくる。うぐいす色の丸みを帯びた小さなからだの鳥で、目の周りが白い羽毛で覆われていることから目白、すなわちメジロの名前の由来になっている。
 ツバキやハナミズキの枝から枝へとちょこまかと飛びまわり、モッコウバラの茂みが絡んだフェンスをくぐって遊ぶ。曲がりくねるキウイの枝がお気に入りなのか、その上でじっとしていることもある。その姿、たまらなくかわいらしい。毎年、ガラス戸からメジロを眺めるのを楽しみにしている。
 初来訪のときには、車の往来が盛んな住宅街の庭によくもまあ来てくれたもんだと心躍ったものだった。メジロは冬が近づくと食料を探しに広範囲に行動する習性があるらしく、庭のツバキの花蜜に目をつけたのだろう。ただ私の身長にも満たない低木のツバキではすぐに満足できなくなったようで、たまに来ては自生したヨウシュヤマゴボウやヘクソカズラの実をつついていた。それならばと、ためしに輪切りのミカンを置いてやると、それからは頻繁に庭を訪れるようになった。今では観賞用の餌台として、ガラス戸の側に、板を乗せた脚立を設置している。
 メジロが当たり前に来訪するようになってしばらく経つと、鳴き声を認識できるようになった。庭に来ると、ちぃーちぃーと鳴くからすぐにわかる。天敵を呼び寄せるかもしれないのに、どうして庭で鳴くのだろうと不思議だったが、おそらくつがいのメジロ相手に呼びかける声なのだろう。人の往来があったときは、きゅるきゅるきゅるきゅると警告音を鳴らして相方に知らせることもある。
 だが、どうもミカンを食べ尽くした時も、私に新しいミカンをおねだりするかのように、ちぃーちぃーと鳴いている気もしている。どちらにせよメジロの声にまんまとお呼ばれしてしまう私がいた。

 けれども、メジロがミカンを食べるときに、辺りを注意深く警戒する動作を見ていると、私に呼びかける声ではないのだろう。きょろきょろと何度も周りをうかがってから、ひと口ついばむと、また首をふって周囲を確認する。時には緊張が漏れるかのような、か細い鳴き声を出しながらミカンをつつくときもある。邪魔はしないから、もう少し気楽に食べてくれてもいいのに……と思いながら、その繊細な姿には妙に親近感が湧いていた。人目を過剰に気にするところはなんだか通ずるものがある。
 それにしても、メジロは辺りの警戒を繰り返すわりには、ガラス戸一枚向こうで見ている私の存在には滅多に気づくことがないのは不思議だった。

 だがある雨の日のこと、メジロが私に向かって鳴いたことがある。外の冷気が家の内にまで感じられる寒い日のことだった。
 ふと庭の方を見ると、まばらに葉が残るキウイの枝にとまり、大雨にうたれるメジロの姿が目に飛び込んだ。からだ全体はずぶ濡れで、乱れた頭頂部からは白黒の羽毛が透けて見えている。寒かろうな、あんな小さいからだでこの寒雨をどうやって生き抜いているだろう……そんな思いで様子をうかがっていると、メジロは餌台に移動してミカンをついばむやいなや、ガラス戸の私の方を向かって、いつにも増して甲高い声で、ちぃーちぃーと激しく鳴き始めた。
 こちらの姿は見えていないはずだ。けれども、何かを必死にこちらに訴えているようで、私は目を離せなかった。その鬼気迫る姿、生きることへの懸命さを小さなからだ全身で表していているようだった。しばらく鳴き声は止まなかった。
 今もあの光景が脳裏に刻まれている。あのとき、メジロの全身全霊の衝動に共鳴して、私もどうにかして鳴きたくなったことも。鬱屈を晴らすような叫びを。

 散乱した部屋の惨状を見るだけでも、自分は本当に何もできないのだと思わされる。棚には物が乱雑に押し込まれ、季節外れの脱ぎ捨てられた服が幾重にも積まれる。机上にも物が散らばり、そのひとつの古本はいつ栞を挟んだものかすら定かで思い出せい。机の下には、黒いビニール袋が何枚も放置されている。いつしか部屋の片付け用にと用意したものだ。袋の中から何年も前のカレンダーがちらりと姿を見せていた。床下には積まれた段ボールがあって……。書き出すときりがない。ずぼらが過ぎていた。
 それでもそこまで部屋が汚いというわけではない。普通の人ならば半日もあれば片付けられる量。それをもう何年も前から処理できずにいる。自分の生活力というものがいかに崩壊しているかがわかる。片付けようにも頭がへとへとで眠気に耐えられず、ベッドで横になってしまう。これは何をやるにしても同じだった。こんなことすら処理できない自分の不甲斐なさに毎度押しつぶされそうになるが、そんな苦しい心を溜息をはらんだ深呼吸でいなす所作にも慣れたものだった。
 今更の人生の望みといえば、自らが生きていくための最低限の生活がしたいだけだ。世間一般でいう当たり前の生活は難しいかもしれないが、少しながらでも働いて、質素な生活の中で趣味を楽しむ。ささやかな暮らしを送りたい。できればメジロを眺めるように、季節ごとの楽しみを見つけて、季節の移り変わりをしみじみと感じて……。
 周りから見ればそれぐらい今すぐやればいいと思われることだろう。私もそう思う。甘えに怠けに先延ばし癖、そこは大いに自覚している。だからそれを正せばいいだけなのだ。ありがたいことに今は在宅の仕事がいくつもある世の中だ。なのに、すべてがままならなかった。最低限やるべきことはわかっているのだ。まずは自分のため、自分一人のためだけに動き出せればいい、そう思っているだけで時間が過ぎていく。心中に鬱屈が積もっていくだけの日々だ。私はどうすれば動き出せるのだろう。

 そういえば、あの雨の日の後、メジロの雨宿りになればと、屋根付きの小さな餌台をつくってやった。百円均一の店で、のこぎりや釘、木材を買ってきて慣れない工作をした。不器用で要領が悪いから、足りないものは買い足しに何度か出向いて、数日かけてようやく完成させた。今でも雨よけに使えている。自分のことは何もできていないのに、メジロの手助けになればという善意からの行動だった。
 もしかしたらそこに私の行動の小さな源泉があるのかもしれない。メジロの声が聞こえると、ベッドから立ち上がり、庭をのぞきに行ける。餌台にミカンを用意してやれる。水場がいるかもしれないと鉢皿に水を入れてやったこともあった。自身でやらなければいけないことは山積みで手を付けられないのに、優先して動ける何かがそこにはあった。
 今まではこんな現状だからこそ、まずは自分のことだけを優先して生きようとしていた。他者というのは、今は自分の行動の負担にしかならないのだと。でもそれは間違っていたのではないか。他者のために、という高尚なものではないかもしれない。けれど、他者の存在こそが、自分が動き出し得るきっかけではないのだろうか。
 昨年、飼い犬が亡くなったときも、優先して動ける何かがそこにはあった。何にでも制御がかかる怠いからだを奮い起こして、自分なりに看病を全うできた。何度も涙が溢れたが、他人の目はそれほど気にならなかった。最期のときまで、衝動に身を委ねた。あれがメジロが全身の衝動で鳴いたものと近いものだったのだと今は信ずるほかはない。
 思い起こせば、他にもいくつか思い当たる節はあった。ようやくだが自分のことが少しずつわかってきた気がする。

 メジロの姿や声を一度意識すると、彼らは一年を通して、身近にいる野鳥なのだと感じる。
 去年は春先にも姿を何度か見かけた。一度は白い糸くずのようなものをくわえて、モッコウバラの枝にとまっていた。おそらく巣作りの最中で、中継地点である庭を休憩スポットにしているのだろう。
 今年は夏にもやってきて、なんと子育てをする姿を間近で見られた。ようやく羽毛が生え揃ったであろう雛鳥を一匹だけ連れて来て、口移しで餌をあげていた。巣立ち直後と思われる雛鳥は、まだ枝に留まるのが苦手なのか、キウイの枝に捕まりながらも必死に翼を羽ばたかせてバランスをとりながら、ちぃーちぃーと親鳥を呼んでいた。なんとも愛くるしい光景だった。
 それに警戒心が強いと思っていたメジロの習性は、他の野鳥に比べれば、大したものではないことに、いつしか気づいた。庭に来るスズメやヒヨは、私がガラス戸の側に近づくだけで気配を感じとって、すぐさま逃げ去ってしまう。それに比べて、メジロは餌台からは離れることはあるものの、餌台後ろのハナミズキの枝上に移動するだけで、わりとすぐに戻ってくる。警戒心のあると思っていた姿はどこにいったのやらとおかしくて笑ってしまう。なんでも見方次第で変わるものだ。今からでも一つずつ変えていけばいい。
 年月を重ねるごとにメジロとの生活に馴染んでいく。もう家族のようなものだと思っている。

 また肌寒い季節が近づてきた。ちぃーちぃーと呼ぶ声がちらほらと聞こえている。もう大丈夫。私は立ち上がり、ふらふらと歩き出すことだろう。
 さあガラス戸をあけて餌台にミカンを置いてやろう。

(第5回 引きこもり文学大賞 受賞作)
* 加筆・修正あり

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