旅は衝突


 昔、友人とバリ島へ旅行に出たときのことだ。事前に立てたスケジュールをなぞる日々にうんざりして、体調不良を言い訳に、半日ほどの自由時間を得たことがある。あの日、足の裏で感じた砂浜の熱さ、無目的に歩いた水辺の光、ホテルまで戻るあいだに食べたジェラートの冷たさ。全てが眩しいほど幸福なものとして記憶に焼きついている。
 もっとも、体調不良という言い訳は無言のうちに看破され、人間関係にしっかりとした亀裂が走った。あたりまえだ。不誠実だ。今は反省している。
 しかしその逸脱によって、わたしは自分の志向する旅の形態を理解した。そして、どうやら自分はマイノリティのようだぞと悟った。

旅の予定を決めると、どうも損な気がするのである。

 旅の予定を決めることには、さまざまな効用がある。時間指定のチケットをとっておけば、やあこの美術館は今日は休みだったね、なんてことはないし、どの店で昼食をとるか悩んで一時間もうろうろすることもない。一時間も並べば、けっこうな人気店に入れる。うまいものをきちんとサーブされて100点の体験ができる。
 でも、その100点の体験の魅力は、わたしにとっては、なんかやばそうなアイリッシュパブに入ってしまい、缶から注がれた1500円のギネスを猛然と飲み干して逃げる経験に劣るのだ。感覚的に。自明のこととして。

 なぜだろう? と考えるとやはり、予定するという行動が旅をある程度既知のものにしてしまう、旅のネタバレ問題がネックになっているように思われる。ガイドブックやインスタグラムにおいてある程度既知になってしまったイベントを、体験がどの程度うわまわれるか、というと、やはり期待値ゼロからぶちこまれる方が、相対的な差は大きい。記憶消してもう一回読みたい、とか、ネタバレされたくない、に似ている。

とかく、行き当たりばったりの体験は心に残る。

 直島の地中美術館はすばらしかった。高松駅の近くをふらふらしていたとき、観光客に「すみません、直島ってどう行くんですか」と尋ねられ、「ふーん、そんなところがあるのか」と知って、翌日行ってみた。美術館は、それそのものも、そこまでの道のりも最高だった。そして、その全てを、わたしはどんな情報においても知らなかった。もし、展示の見ためや仕掛けを多少なりと知っていたら、こんなふうな、脳みそへ知的刺激がぐさぐさと突き刺さってドーパミンがぼたぼた滴るような経験には、おそらくならなかっただろう。(これも面白さのネタバレ、オモバレであろうと思う。すみません。)
 あるいはベトナムのダナンで市場へ迷い込んだときの興奮も心に残っている。缶ビールを買って意気揚々とホテルへ戻る途中、青空市場へ迷い込んだ。三十度越えの気温の中、カッと照りつける太陽の下、赤々とした豚肉が、まったく常温のまま屋台の軒先から吊り下がっていた。肋骨のかたちをありありと残した迫力の一品である。肉の表面は日差しに乾き、小虫がそのまわりを旋回していた。反射的に、あっ、うまそう、と思った。
 市場の奥へ進んでいくと、金属製のケージに生きた鶏が三段ばかり詰まっていた。金網でできた四角いケージの中に、白い鶏が四羽×三段という感じでぎゅうぎゅうと積み重ねられていた。鶏たちはもはや観念して、しかし窮屈そうにうごめいていた。
 そのうちの一羽が、くるりとした黒い目でわたしを見た。薄べったいうろこのように脳みそへ張り付いていた倫理の殻が、その視線によって、バキッと剥がれるのを感じた。
 その市場で、野菜を商っていた老婆からパクチーといんげんを買った。いんげんは半分かたくて食べられなかったし、よくよく考えるとおもくそボられたが、そのパクチーを盛って部屋で食べたインスタント・フォーは、なにがしか勝利の味がした。(ダナンではあんまりパクチーを売っていなかったので、貴重なパクチーでもあった。)
 他の街では、つやつやの蛙の脚が積み上がっているさまを見たことがある。皮をはがれたうさぎが吊り下がっているのも見たことがある。しかし、それは強烈な体験にはならなかった。異質な風景の一部として記憶の列に加わったに過ぎなかった。
 その差は、「そういうのがあるかもなあ」と予想していたか否かにあるのではないかと感じる。ダナンでは、そこに市場があると知らなかったから、習慣を知らなかったから、炎天下の生肉や三段詰めの鶏が、わたしの倫理に楔を打ち込んだのだ。

800字にわたってよかった旅自慢をさせていただいたが、つまりはこういうことである。

・ある程度既知のものを体験することの良さは再読の喜びに似ていて、爆発力において初見の悲鳴に及ばない。 
・例えば、100点の経験をしても、事前の学習による期待値が70点であれば、その差は+30点となる。
・70点の経験であっても、事前の学習による期待値が40点未満であれば、その差においては前項の100点の経験に勝る。
・セオリーとかポリシーとかではなく、損得勘定で、わたしは旅に予定を立てないほうが(つまり、旅について調べない方が)よいと感じている。

しかし、それはそれとして

 もっとも、少しの知識を身につけていく方が、旅はスムーズだ。国外なら宗教的・文化的にしてはいけないこと、口にしてよいもの、やばいもの、飛行機の発着時間、チェックインの締切時間、パスポートに必要な残存有効期間。現地で無神経バズーカを炸裂させたり、チェックインの締め切り時間を誤って飛行機に乗り損ねると、自身または移動の消失によって、旅そのものが成立しなくなるリスクがある。
 それに、わたしもバリ旅行のときよりは年をとったから、複数人で行く旅行ではきちんと予定を立てる。空港までの移動、乗り継ぎ、宿泊先までの移動、有名な観光地、普段よりもしっかりと時間をとるし、プランBも準備する。人間的成熟ではない。怒られたくないからだ。
 しかしそうしていても、交通その他のトラブルにより、現場の判断において、予定を変更したり、空港や街中を爆走するはめになることはある。
 そういうとき、わたしは内心舌なめずりをして、うーん正しく旅をしているな、と思う。