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覚悟〜決断の時〜 前編
私にしては、長年勤めた会社を先日辞めた。
私は、会社にとって最初の社員であり、何の役職もつかないが、会社を回し、営業にまわり、売り上げをあげ、後輩やパートさんに仕事を教え、大変な状況を何度も乗り越えて来た。
有給の概念も無ければ
交通費の概念すらない。
最初はプリペイドカードを渡されて、それで交通費を支払っていた。
まだ社員が2人だった頃は、事業規模も大きくなく、半日で仕事が終わってしまうこともあれば、突然、明日は仕事休みにしますという電話がかかってくることもあった。
当時の最低賃金と同じ額面13万円の月給
パートで1日5.5時間働いていた前職と手取りは全く同じだった。
それでも休みも多く、早く仕事は終わる。
売り上げも増え、会社は黒字。
役員たちは、夜まで働かなくて良くなったと喜んでいた。
東京出張も多かったが、1人気楽な出張でもあり、売り上げさえそこそこあげていれば文句を言われることも無く、夜は東京の友人を呼んで遊んだりする楽しい時間でもあった。
最低賃金が年々上昇し、私たちの給料も、相変わらず最低賃金ではあるが、上昇した。
会社を大きくしたい役員たちは、人を次々雇った。役員は会社にいないことが多いので、実質、回すのは私たち2人の創業期に入社した社員。とはいえ、私が年長で、任されていたのもあって、役員がいない時はほぼ私に権限があり、役員と電話で相談しながら日々業務を進めていた。
会社の規模が大きくなるに従って、会社は忙しくなっていった。休みも、ゴールデンウィーク休み、夏休み、年末年始休み、年々日数が減っていった。
忙しい春〜秋には残業が増えた。
19時、20時まで働くことが増えた。
東京出張も隔週になった。
仕事が終わった後、夜行バスか軽バンでの移動となっていった。
山形に帰ってきたと思ったらまた東京
という日々が続くとだんだん心がおかしくなっていく。
直談判して、私は山形に残ることになった。
昨年の春、長らくガンを患っていた父が亡くなった。父は亡くなる3週間前に山形に来て、一緒に温泉に行った。それすら仕事が忙しくてあまり一緒にいることが出来なかった。
最後ぐらい一緒に…と危篤の連絡が来て、会社を休み、最期の2日間を一緒に過ごした。
父が亡くなり、葬儀の日程を伝え、遠方のため、手続きもあるし、週明けには戻ると会社に伝えると、葬儀が終わったらすぐ戻って来て下さいと社長から連絡があった。
彼らには分からないかもしれないが、私の母は父とは本当に仲が悪く、逆恨みに近い状態で、病院にも1度しか来なかった人だ。
もちろん葬儀のこと、手続きのこと
何もやってなどくれない。
それでも葬儀屋は名義上は、母を喪主としておけというので、母を喪主としてたて、手続きの全てを私と姉で分担して行ったが、まだ終わっていないものも正直な所ある状態だ。
会社に事情を説明しても、どうしても納得してもらえず、私は葬儀翌日、山形に戻った。
この件は、他の従業員も現場で聞いていたようで、労働基準監督署に行った方が良いと言われるほどだった。
私も自分の中で、恨みの感情が生まれたことを感じていた。
後編に続く…