蕗ノート 神様との対話
関西に行くと日本最古の神社で山駆けをする。
だいたい2時間で往復できる道のりを私は4~5時間かけて行くので一日がかり。
人が多いと疲れてしまうので、いつも平日の祭事がない日に登っていた。
今回は、ゴールデンウィークかつ朔日祭。
ものすごい人出。
行くのやめようか迷ったけど呼ばれた気がして向かった。
地図を手に沢山の人が登る。
蠢き出したくなる陽気。草木は黄緑色にキラキラして、蛙が鳴き、ヤモリや虫があちらこちらに蠢いている。
甲高い声でおしゃべりに興じる人
トレイルランのように駆け抜けていく人
虫を踏みつけていく人
遠足気分の子どもたちや親
山スタイルに身を包みストックをついて登る人
いつも静かに登っている神聖なお山はこの日、まるでアミューズメントパークだった。
「こんな状態なんだよ」という声が聞こえた気がした。
「いつも人が来ない時にしか来たことが無いだろう」
確かに。
靴音が聞こえて来ると、先に行って貰う。
競うように登り、競うように降りていく。
「私にとっては極楽浄土みたいな場所」
この人たちは長居しなくていいってことかな。
「あと、少しですよ。頑張って。」
と降りてくる時に声をかけてくる人がいる。
登り終わった人のエゴって凄いなと思う。
頑張って登っている訳じゃなく、ふるさとへの帰郷のような感じで一つ一つ懐かしむようなことなのに、余計な言葉を投げられたなと感じた。
この人に限らず、登り終わった人は何かと説明したがる。本当は地図もいらない。
登り終わった人、は大人と言い換えてもいいかもしれない。
大人は子どもに必要以上に声をかけたり説明したりする。
情報なしの方が自ら学びとるものは大きい。
頂上で珍しくつまづいて、足が痛かった。
「痛みはすぐ忘れるだろう、そのことを忘れてはいけないよ」
「今回は人が沢山いて、礼を欠かしたり、少し頭にきたりしたでしょう。自分を見失いないそうになる時ほど、立ち止まりなさい。うるさい人に惑わされずに自分を全うしなさい。おしゃべりに惑わされないようにね。自分をまっすぐ生きている人はどうでもいいようなおしゃべりに大事な気を回したりしないものですよ。」
ここは、呼ばれないと行けないと言われる山
ここに来る人は皆、何かしらがあって来ている。
「五月蝿いなと思ったあの人もご縁のある人、現世での勉強中。人のことをあーだーこうだ言わずに自分の現世に集中しなさい。それが全体から見たら必要なことなんです」
言葉は大切に遣おうとすればするほど、文章で書くことは出来てもしゃべることは難しくなっていく。
しっくり来ている言葉で伝えられることがどれぐらいあるのだろう。
そのことに思い至ってたから言葉がうまく話せなくなった。
話していることの大半はどうでもいい情報で、何かから目をそらすためなのかなんなのかのために私たちはおしゃべりをしている。
帰り道、今まで立ち寄ったことが無かった大きな杉の木に呼ばれた気がして立ち寄った。
根元に沢山の供物があって、ここは供物は持ち帰りなのでゴミのように見えて残念だなと思いながら礼をした。
そして帰ろうとしたら根っこに引っ張られた。
振り返ると私の礼を見た沢山の人が彼の木に近づき触れていた。
人がいなくなってから近づいてその木に触った。その瞬間、手の気が木に入っていく感覚がした。
今まで、木からこちらへ入ってくる感覚はあっても、木にこちらからという感覚は無かった。
その間に、また人が集まってきて、ものすごい顔をして木に触れている。
この木に何を願うのか、望むのか
初めて来た時に、山形に送られて以来、私はお願いごとが無くなった。
願うとすればどうすればいいのか分からない時、どうか導いて下さいということ。
木に触れながら、私が神様(木や岩)に力を分けて貰うのを求めるように、神様の側からそういうこともあるんだなと感じた。
昔の人は、神様と沢山やり取りしていたんだと思う。神様の居場所を作り、掃除をして、祭礼の時には場を清めて。
神様にお金を出して頼みごと
って凄く現代的な感じがした。
おかえりと言われるようになったのは、昨年の11月の末、色々分かるようになってから。
その時、ここは魂のふるさとなのかもしれないと感じた。
「朝日町でのお勤めご苦労様。色々勉強になったでしょ。次は庄内で魂を磨きなさい。その合間、ここで少し極楽浄土を味わっていきなさい。全て終わったらまたここに戻って来れるから、その時まで生きなさい」
今年の3月には
「誰も自分のことを分かってくれないと思って生きていたでしょ。怖がらないで、ちゃんと思っていること、今までのこと、隠してること、開いていきなさい。自分を閉じ込めないで開きなさい。もうそうしても大丈夫だから」
なんか、いつも励まされている。
ぐるぐる旅をしていて、迷走しているように見えるかもしれない私の日々だけど、今、会うべき人に会え、行くべき所に行けたと思う。
帰りに水垢離をしたら、それまで全身から漂った人間臭さが抜けた。
私がこの神社に来るようになったのは初めて来た時、帰りに水だけ汲みに寄って、凄く疲れていたのに、その帰り体がとても軽くなっていたから。衝撃だった。
マッサージした、とか温泉に入ったとか
そういうこと何もしていないのだ。
ただ、鳥居をくぐり水を汲んだだけ。
その時の感覚があるから何度も通った。通う度に、ここは凄い所だという確信に至った。
自分の感覚を信じて生きる。
感覚を良くするためには、体を整えておいた方がいい。
山頂で、「腰、ちゃんとケアしろよ」と言われた時には笑ってしまった。
キラキラお天道様、ざわめく日だまり、神様は毎日そばにいるんだなぁ。
奈良の夕暮れは優しく美しかった。
尽きるその時まで、人生は続く。
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