蕗ノート 祭りは男のアイデンティティー
平成の大合併で、無くなった町村を取材して本にする
という企画のお手伝いをしている。
今日は旧暦では桃の節句。
鶴岡市の各地域で春の例大祭が行われていて、私は獅子天狗舞の写真をひたすら撮っていた。
桃の節句というイメージとは裏腹に
ビックリするほど、男衆の祭り。
回る家々では女性もいるが、男衆が練り歩くというのは朝日町でも一緒だった。
ふと、思った。
子どもが産めないということは
いてもいなくてもいいということじゃないか
そんなことを思った時、人間は役割を考え出すのではないかと。
闘う役割
神様と繋がる役割
労働力としてだけでない意義…
古来の神様と繋がる役割が、卑弥呼だったとすれば、ほとんど女で世界は廻っていることになってしまう。
それを許せないと思ったら女を押し出すしかない
子どもの頃、山の神様は女だから、嫉妬をするから山に入ってはいけないと言われた。
山の神様は女であり、男であるといま、私は思っている。
祭りに女を入れない、山に女を入れないというのはそういう差別化であり、男の生存戦略だったのかもしれない。
女は神様と繋がる領域にいれないぞと。
なんだそれ、女人禁制。
いや、気が散るからかも知れんけど。
家庭(子作りの場所)と何か(性愛の場所)そして衣食、その辺り以外にはいれたくないぞーそんな感じがする。
女は群れるというけれど
私は最近、男の人の方が過剰ナぐらい組織だなぁと思ったりする。
天狗の鼻はまんま、シンボルな感じだし
お獅子さんも山男みたいだな。
私は男も女も平等に祭りの場に、とか、山伏に、マタギに、とかは思っていない。
彼らには長い間守って来た砦なのだ。
よっぽど入りたい強い気持ちである場合以外はそっとしておいてあげるのが優しさかなと思う。
例え、女が入らなかったことによって滅ぶとしても。
じゃあ女はどうするよということだけど
神様みたいな子どもと繋がるかな。
女の人は
しっかりしよう!とかストレスとかの歪みがなければ基本的には神様みたいなものなんだと思う。
物事に敏感だし五感も鋭い。
男の人が神様と繋がろうと祭りをしている間に
日々なんとなく繋がっちゃってて
全部分かりきってるんだけど、でもありがたやありがたやっていうのが女性が懐深い所だと思う。
金切り声をあげて、男女平等を訴える時代は終わった。元々男女は不平等。
男性の方が大変でかわいそうなのかも。
それを女性は知っててもみないふりしてたててきたのだと思う。
文明の転換、多く必死で守ろうとするものは男性が作ってきたものが多そう。
軽やかにそういうものは飛び越えていってしまっていいのさ。
だって私たちは何も守ろうとして来なかったのだから。
守るものは子ども。それだけでいいじゃないか。
守ろうとすればするほど弱くなる。
何もかも無くなったって大丈夫なのに
それが怖くて怖くて仕方がないってそろそろ終わりにしたいな。