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山伏修行に入ったわけ 蕗ノート

昨年、山形県鶴岡市の羽黒山山中で、荒沢寺の秋の峰入りに参加した。
 
 
それから半年。
山岳信仰の本、修験道の本、仏像の本、お経の本、色々読みながら、あるいは法要などに参加させて頂く中で、その時の修行のこと
「あれはこういう事だったのではないか」と考えることは多いし、日が経てば経つほど修行で過ごした日々を大切に思うようになった。
 
 
私は、自分がなぜ、お金も時間もかけて、この修行に参加するのか、したのか
ということが良く分からなかった。
まずは、せずにはいられないという所で、自分の身を投げ出してみたのだと思っていたが、その「せずにはいられない」の部分が何なのかは良く分からなかった。

 
東京にいた頃、娘のように可愛がってくれた人がいた。とても知的で、聡明で、世界の秘密を沢山教えてくれた。
まだ、20代前半の私は、彼の話に夢中になった。
瞑想やヒーリングのことを教えてくれたその人は、私が山形に引っ越した頃から、スピリチュアルな世界のことを広める活動を始めた。
 
 
当時、山形で山伏という存在と出会っていた私は、彼に山伏や修行はどうなのか?と聞いた。
彼は、そうやって肉体にムチを打たなくても、厳しい修行をしなくても、宇宙とは繋がれると言った。
 
 
帰りの空は、四角い建物の奥に少しだけ見える東京の空だった。
 
 
そうなのかもしれない。
彼のいうことは正しいのかもしれない。
頭の中だけ操作しても、悟れるのかもしれないし、スピリチュアルな通信とか出来るのかもしれない。

でも私は、そういう形ではなく
分からない世界に、身体を投げ出して、そこで、苦しんだり、楽しかったりしながら

「だんだん分かってくる」
という経験をしたかったのではないかと最近、感じるようになった。
 
 
手っ取り早く正解が欲しいのではなく、間違ってもいいから、自分でひとつひとつ「これなんじゃないか」という実感をつかんでいきたいのだ。

修験とか何なのか
人とは何なのか
山とは何なのか
私とは何なのか
なぜ、生きているのか
死んだらどこへいくのか
 
 
「誰かの答え」は色んな所にあって、様々な場所でそれぞれの人がそれぞれの「真実」を語る
 
 
私はそれを鵜呑みにもしてきたし、信じても来たけれど、自分で、何年かかってもトライ&エラーの中で見つけていきたいと思ったのだ。
 
 
頭で考えたことではなく
身体が体験してきたこと

そこから紐といていく
そこには、はっきりとした「正解」はなく
きっとこうなんじゃないか

というものしかない。

「正解」が無いからこそ、いつまでも、何回修行しても紐といてゆける

そこに「豊かさ」があるように感じるのだ。
 
 
誰も否定することも
誰も奪うことも出来ない
 
 
長い長いこの土の上で、太陽の下で行われてきた営み。
山の中で祈る時、その上にあった今までの様々が、私と繋がるように感じる。

そして、やはり往くのだ、
生きている限り、「だんだん分かってくる」しかない。
 
例え、それが「正しかった」としても、誰かに教わるより(それは服従でもあるかもしれない)
自分の五感で、見つけていきたいのだ。

だから、山伏修行だったし、これからもそうなのであろうと。
数ヵ月前から、ここ数日の日々が、それを教えてくれたような気がしている。

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