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どうして忘れてしまうのだろう

とうとう冬の嵐がやってきた。
ビュービューなどという生やさしいものではない

ゴウゴウと音を立てる風
時たま、建物にぶつかるバンッという音が聞こえる

神が鳴るから、雷だとしたら
冬を告げるのは大嵐

そして、大嵐とともに鰰がやってくる

そうやって、季節の変化をそのまま受け入れて
自然に殺されそうになりながら生かされて
なんとかかんとか12回目の冬

屋根がバンッ、ゴンと強い音で弾かれる


最近、恩師の武田信子さんが山形にやってきた。
私の人生で初めて出会った「ホントウノオトナ」

子どものままじゃいられない
となった日、大きな木の下で泣きじゃくりながら、武田さんと話した映像は今も頭の中に残る。


武田さんと出会ってちょうど20年
私は、十分に大人になったと自負する

運転もできるし、家事もできる
仕事もそこそこできるし、約束も守れる

頑張れば。

いつも、お外でギリギリ大人を保っているから、おうちじゃたれパンダ🐼

子どもの自分をそのまま置いて、時に大人に切り替えて、暮らしているような気がする

武田さんの講演を本当に数十年ぶりに聞いて

それはいわゆる「やりすぎ教育」の話だったんだけれども。
そしてテーマは大人のものさし見直そうだったんだけれども。

そうか。大人のものさし見直さなきゃいけないくらい


大人は子どもだったことを
忘れているんだな

と気づかされる

学童から1人帰る暗い道の心細さ
親の都合で、勝手に動かされる人生
独自の家庭ルールで縛られて
習い事は辞めさせてもらえず

そんなことを山ほど覚えているし
今は大人だからこそ、嫌なことはやめるし
自分の人生は自分で決められる

それでも多少はお伺いしてしまう家族のこと

でも他の人の話を聞くと
子どもの気持ちが分からない
自分の子どもの頃の気持ちから想像できない
大人が多いんだなと感じる

はたまた最近、いらしていたアナーキストの栗原さんが

「泥棒が好き!自立が嫌い!」
って言い放って最高だなと思った。

やりたいことしかやりたくないし
働かないで(嫌なことしないで)たらふく食べたい

自分の中心で呼んでいるものは何か
子どもの頃はいつも呼ばれていたように思う

それが、勉強や仕事

そういった

しなければならないもの

他人に合わせた生活

に時間を使ううち、呼ばれていることに気づかなくなる

好きに生きていいし
迷惑だってかけていい

山形に来て、不寛容さには驚くことも多いけど

それは自分たちが出来ないからってこと?

常識や暗黙の了解にばっかり縛られて
子どもも同じように扱って

そしてこの社会への疎外感はやがて
車で人を轢き殺したり、ビルに火を放つ人を生み出すんだと思う

周り回って自分のために

好きなように生きよう

ねぇ、あの頃、何が楽しかった?
ねぇ、今は何が楽しい?

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