蕗ノート アドボケーターとして生きる
高校生の時からヨガと気功をやっていたり、東洋医学の元となった中医学を勉強していたこともあって、たまにヨガのレッスンをしたり、重病の方の治療を行ったりしている。
体を見る、聞く、触れる、嗅ぐ…
そうして感じるのは、その人の体の声
「出したい、溜まっている悪いもの出したい」
「うまく流れが通らない、なんとかしたい」
なかなか本人には届かない体の声。
それが聞こえて来るようになった。
私は自分の体の声が聞こえるようになってから、それを無視して突き進むことをやめた。
自分の体の声が聞こえなくなれば、他の人の体の声も聞こえなくなるから。
全ては繋がっているのだ。
まぶしすぎる光には、目を閉じて
耐えきれない都会の匂いからは、離れて
工事の音が激しくて耳が嫌がっている時は、塞いで
夜のホタルの光に、目を奪わせて
咲き出す花のかぐわしい匂いに酔って
カエルの鳴き声に耳を澄ます
体が喜んでいる時、体が嫌がっている時、まるで他人のそれのように客観的に、私は自分の体の感覚を知る。
だから、きっと他人の体も自分の体の延長線上にあるという確信がある。
他人の体を見るのと自分の体を見るのは私にとっては同じようなものなのだ。
「体の声の代弁」
アドボケートは代弁とか訳される。
体の声のことが分かったようになった時、私は自分がアドボケートのための人なのだと知った。
言葉にできない想いを言葉にしていく。
振り返れば、20歳になる頃から、会社の面接とかでは上手いこと言えないのに、学校や会社やいろんな所でピッタリの言葉を当てはめていって、しっくりくる言葉が無かったものが名前や形を得ていくということが何度もあったのだ。
それはインタビューの仕事をしてみて初めて気がついたのだ。
これは、自分だけでなく誰にでも備わっているものだと思っていたけれど、「誰にでも」ではなく、それが上手くできない人には「アドボケートする人」が必要なのだ。
今は、赤ちゃんといる時、アドボケートしている自分を感じることが多い。
「言葉にできない」彼らの必ず訳があっての行動が、なぜ起こっているのか、なぜ泣いているのか、なぜ叩いてしまうのか、痛いほど伝わってきてしまうのだ。
それを口にすると大抵、子ども達は落ち着くし、口にしなくても、ああそうなんだと思って付き合うとそれがすんなり伝わるらしい。
「大人は分かってくれないことが多い」
それは、私がこの20年で分かってきたこと。
泣いてはいけない、我慢しなきゃいけない
子どもの頃からそうやって一つ押し込めていくたび、一つ本当を失っていくのだろうか。
アドボケートする人なんて、わざわざいなくてもいいのだろう。
それでも代弁していかないと、押し込めて本当を失って経済や見栄に動かされている人達に届かなくて、どんどん苦しくなるから代弁してかなければいけない。小さいことでも。
いつか、わざわざアドボケートとか言わなくても、自然と言葉ではないことを汲み取ってコミニュケーションが成り立っていく日が来るのが一番で、私はその日までアドボケーターでいようと思った。
苦しい、悲しい、孤独、怒り
それを誰も受け止めてくれなかったと感じた時、世界はきっとどうでも良くなる。
ひとつひとつ受け止めて、必要なら代弁していく。
そんなことが出来ていたら、死ななかっただろう…
そんな後輩がいたことをいつも思い出してしまう。
一人、受け止めたら、きっとその一人が次の一人を受け止める。
世界は繋がっている。
海の向こうで人が人を殺しているのはとても悲しいけど、悲しみにばかり捕らわれないで、目の前の人の本当を掴むんだ。
それが、世界のどこかの悲しみをいつか受け止めることに繋がっているんだ。
アドボケーターとして生きる。
それが仕事なのかは分からないけど、人生のお役目なのだと感じています。