「これが無いなら私は生きている意味がない」と思えるものが私にはあるだろうか
先日、シンガーソングライターの女性が亡くなった。
彼女とは、確か小学校高学年のときに、見ていた深夜アニメの主題歌で出会い、それから度々彼女の曲を聴くようになった。
動画サイトに上がっている彼女の路上ライブの動画をよく見ていた。
初期のオリジナル曲と思われる一曲が特に好きで、何度も何度も聞いた。
夜の駅前、ギター一本と幼げなポンチョを身につけて歌う彼女の姿は、暗いようで生命力に溢れ、命を削ぐように歌い、何より孤独だった。
そんな彼女と彼女の歌声に、孤独でたまらなかった思春期の私は釘付けになった。
時は過ぎ、彼女はとうに人気歌手になっていた。
路上ライブの規模では到底抱えきれない数のファンが彼女の歌に支えられていた。
いつだか、病を患い療養するという報告も見かけた記憶があった。
でも、うん、こんなに早くこの世を去るとは。
彼女の訃報に寄せられた反応を見て、彼女の歌がどれだけ多くの人の心に響いていたのかと知り、驚いた。
詮索とかではなく、もし彼女が、病で歌えなくなったことを苦に思い、自死をはかったのなら、と考えを巡らせた。
正直、羨ましいと思った。
歌えないのならもう生きている意味がない、と思ったのだとしたら。
心から、歌うことが自分の生きる価値だと彼女が胸を張っていたのだとしたら、一つの物事に自分の生きる意味を見出せることが純粋にとても素敵だと思った。彼女の世界はどんな色をしていたのだろうか。
私には今、「これが無くなってしまったら私には生きる意味はない」と思える具体的な一つのことがまだない気がする。
強いていうなら、「自由に行動できる」ことが奪われてしまったら、生きる気力を失う気がする。でもそれは私が自由であるという「状態」であって、彼女のように音楽に携わるという「行為」とは違っているから、なんだかはっきりしないのである。
それは私が今周りの人たちのおかげで特に不自由なく、最低限の不安しかなく、毎日気ままにご飯を食べられる生活が当たり前だからだと思う。自分の命をかけて何か一つのことに縋る生活をしていないというか。別にこれはいい意味でも悪い意味でもない。
もちろん彼女の私生活について私は全く知らないけれど、彼女がきっと繊細でどこか脆くて孤独と生きていた人だったのかも、とは感じている。
そして、そんな彼女の危うさこそが、彼女の音楽の輝かしさであり、悲しさであったのかもしれない。
彼女のように、自分の命をかけて突き詰められるものが私にはあるだろうか、または、いつかできるだろうか。
自分の生き方や思想について考えさせられる日々である。