【観劇メモ】星組公演『柳生忍法帖』を観る

『モアー・ダンディズム!』の観劇メモを先にあげてから時間が経ってしまった。その間に2回、3回、4回と観劇を重ねてしまう。初見の時は緊急事態宣言下のため、大劇場の食堂、カフェ等はすべて営業休止中であったが、その後は食堂やカフェが営業を再開し、劇場に以前の活気が戻ってきた。

余談だが、入口付近の「フルール」から漏れる食堂の匂いが、初観劇時からの私の宝塚大劇場の印象を決定づけている。この匂いがすると劇場に来たという感じがする(こんな風に食堂の匂いが迎え入れてくれる劇場が他にあるだろうか?)。

『柳生忍法帖』は、山田風太郎の原作を読んでおらず、映像化された作品も未見なので、以下の文章はまったく前知識のない状態での観劇の感想である。物語の要約が少々長くなっているかもしれない。

幕が開く前から、ゆら(舞空瞳)の歌う童謡が聞こえてくる。「一つとや…二つとや…」と歌われる何となく悲しげな歌である。これが劇中で何度かリフレインされる。

幕が開き、物語は会津・鶴ヶ城の場面から始まる。家老の堀主水(美稀千種)は、藩主・加藤成明(輝咲玲央)の暴政を諌めるが聞き入れられず、一族を連れて藩を出て行くことを決意する。脱藩は主君を裏切る行為であり、当時にあっては重罪である。主水は娘のお千絵(小桜ほのか)に指示し、一族の女たちを鎌倉にある尼寺・東慶寺に避難させる。正体不明の怪しい男・芦名銅伯(愛月ひかる)が登場し、主水らが出て行ったことをよろこぶ。

堀主水ら一族の男たちは銅伯の手下で七本槍と呼ばれる七人の精鋭たち(瀬央ゆりあ扮する漆戸虹七郎がリーダーをつとめる)に捕まってしまう。七本槍たちはさらに、堀一族の女たちが匿われている東慶寺にやってきて、乱暴を働こうとする。そこに東慶寺を庇護する天樹院(白妙なつ)が籠に乗って現れ、間一髪のところで女たちを救う。天樹院は、徳川家光の姉で、かつて豊臣秀頼の妻であった千姫である。

女人救済の駆け込み寺として大事に護ってきた場所を穢されたことに怒り心頭の天樹院。なんとしても女の手で七本槍を懲らしめたい。堀家の女たちも処刑されてしまった一族の男たちのために是非とも敵討ちを果たしたい。互いの怒りが共震する。しかし、そのためには女たちに相当な武術を身につけさせねばならない。天樹院はかねてから帰依している禅僧・沢庵和尚(天寿光希)に頼み、指南役として柳生十兵衛(礼真琴)を迎え入れる。

暗がりの銀橋にスポットが当たり、あぐらをかいた姿勢の十兵衛が登場する。浅黒く日に焼け、不敵な笑みを湛えた隻眼の十兵衛。ここからのプロローグが圧巻である。お屋敷育ちのお姫さまだったと思われる女たちが、十兵衛の指導を受けて精悍な戦士に生まれ変わる。その過程が歌とダンスにのせて描かれる。音波みのり、小桜ほのかをはじめとする娘役たちが刀を手に群舞する。敵の七本槍、銅伯とゆらもふたたび登場する。七本槍の面々はそれぞれ個性的な出で立ちが目を引くが、やはり愛月の銅伯が別格の存在感を放っている。傾城風の衣装を纏う舞空のゆらとの並びも絵になる。舞台上に役者が揃いプロローグが締めくくられる。

このときの「止め絵」の美しさ、華やかさは、歌舞伎や文楽の舞台にも通じるものがある。なんとなく、以前に見た紅ゆずる退団公演の『食聖―God of Star』のプロローグを思い出してしまう。『食聖』もそうだが、役者のビジュアル的にも、物語の内容的にも、今回の舞台もいわゆる「2.5次元」の芝居の趣がある。

つづく江戸市中の場面。千姫の御殿の周辺で祝言の晩に花婿と花嫁がそろって姿を消し、翌朝花婿だけが正気を失った状態で御殿の前に放置されるという怪事件が頻発している。十兵衛は堀一族の娘の一人・お圭(音波みのり)とともに、花婿・花嫁に扮し、おとり捜査にくり出す。

この場面、花婿・花嫁に扮した二人が夜桜を背景に舞い踊る姿が美しい。礼と音波は礼がトップになる前はショーなどでよく組んで踊っていたように思う。再び二人の踊りを見ることができてよかった。

十兵衛のねらい通り、七本槍の面々が現れ、二人は加藤家の江戸藩邸に連れ去られる。屋敷には銅伯によって派遣されたゆらがおり、花婿に扮した十兵衛を魔性の香の罠にかけようとする。今回の事件は、銅伯らが自らの野望を遂行する上で邪魔になる千姫の評判を落とすために仕組んだものだった。十兵衛らは香の魔力に屈することなく、陰謀を阻止することに成功する。懲らしめられた明成の情けない姿が滑稽である。輝咲のコミカルな演技が光る。

その後、戦いの舞台は、加藤家の本拠地である会津へと移る。道中、祭りの場面などが挟まれ賑やかだ。

会津では戻ってきた七本槍の面々を銅伯が迎え入れる。もともとこの地は芦名一族が治めていたが、戦に敗れ一族がほぼ滅亡させられたことが語られる。銅伯はその芦名一族の生き残りだった。回想シーンでは、愛月自身が若き日の銅伯を演じる。それまでの金髪から黒髪に変わった姿が凛々しい。戦に敗れ、次々に死んでゆく仲間たちを目の当たりにした若き日の銅伯の悲しみ、口惜しさが伝わってくる。このシーンがあるために、銅伯が単なる極悪非道な怪物ではなく、血の通った一人の人間であったことがわかる。

会津の村々では、七本槍らが手下を率い殿のご機嫌取りのために美しい娘を探していた。だが、いくら探しても美しい娘が見つからない。実は、沢庵和尚の指示を受けた禅僧の一団が尼僧集めと称して村々を回り娘らを集めて回っていたのだった。一団は途中、農家の娘らが攫われそうになる現場に遭遇する。禅僧たちに紛れ込んでいた堀一族の女たちが飛び出していき、娘らを助けようとする。そこへ七本槍の二人が現れる。必死の戦いの末、十兵衛の助太刀もあり、七本槍の二人を打ち倒す。このとき、十兵衛とお千絵は負傷してしまう。

その頃、沢庵和尚らは別ルートで鶴ヶ城に向かっていた。和尚はそこで銅伯と対面するが、初めて会う銅伯が芦名と名乗り、さらにある人物に生写しであることに動揺する。

和尚は鶴ヶ城の地下の部屋で再び銅伯と対面する。そこで銅伯が芦名一族の生き残りであること、さらには徳川将軍家が帰依する天海大僧正の双子の兄弟であることを知る。しかも、天海と銅伯は命運をともにしており、どちらかが死なねばもう一人も死なないという。銅伯は女たちを赦免する代わりに十兵衛の命を差し出すよう要求する。銅伯が不死身と知り(厳密には不死身ではないのだが)勝てる見込みがなくなったと絶望する和尚。

和尚から事の次第を認めた手紙を受け取った十兵衛は、一人で鶴ヶ城へと向かう。十兵衛の覚悟を示すソロが歌われる。

銅伯とゆら、明成に加えて七本槍の残りのメンバーが待ち構える城内に、深編み笠姿の十兵衛が姿を現す。和尚は十兵衛に、自らも命を賭して女たちが七本槍と尋常に立ち会えるよう相手方に承知させるので、十兵衛には一族の女たちと一緒に死んでくれと泣きすがる。「嫌でござる」と突っぱねる十兵衛。自分の命はともかく、女たちを死なせることは嫌だという。和尚はあらためて、銅伯が死ねば天海大僧正も死ぬこと、そうすれば江戸幕府の存続も危うくなることを十兵衛に言って聞かせる。それに対し十兵衛は「差し支えござらぬ」と答える。ここからの十兵衛の台詞が感動的なので、そのまま引用しておきたい(『ルサンク』2021年10月号より)

”和尚。和尚。血迷われましたか。そもそも、これまでの無道、残虐ぶりを見て、彼奴らが女たちと尋常に立ち会うと、真にお思いか?…拙者は信じませぬ。従って、断じて女たちを、みすみすなぶり殺しの運命に落とすわけには参り申さぬ。…和尚、女たちを見殺しにして、なんの武士道、なんの仏法か。仏法なくして何のための天海大僧正、武士道なくして何のための徳川将軍家でござる。もし、女たちを殺さねば、大僧正が死なれる、徳川家が滅びると仰せならば、よろしい、大僧正も死なれて結構、徳川家も滅んで結構”

本来、人々が平穏に暮らすために作られた体制が、どこかで逆転して、体制のために人々を犠牲にするようになってしまう。徳川幕府であれ現在の日本であれ、いつの時代のどんな組織や集団でも起こり得る問題を、鋭く突いている。

成明は鉄砲隊に攻撃を命じる。十兵衛は和尚を人質にとり応戦する(幕府に近い和尚は敵方も攻撃できない)。七本槍に斬りかかられ、深編笠を投げ捨てる十兵衛。現れた隻眼姿を見て、銅伯らは初めて相手が柳生十兵衛だとわかる。銅伯は七本槍らに攻撃をやめさせ、十兵衛に父親の宗矩がこの戦いについて承知しているのか尋ねる(このあたりも含め、銅伯は非常に律儀である)。十兵衛が勘当された身であることを確かめた上で、銅伯は自ら相手を買って出る。

十兵衛は銅伯を切るが倒れない。ようやく事態を理解し負けを認める十兵衛。明成はとどめを刺すよう七本槍に命じる。そこに突然、ゆらが待ったをかける。ゆらは十兵衛をひと思いに殺してしまうのは惜しいという。

鶴ヶ城の地下、攫われた女たちが囚われている牢に一緒に入れらている十兵衛。ゆらと明成が現れ、ゆらは明成に恋が恨みに変わる魔性の香を女たちにかがせ、女の手で十兵衛が引き裂かれる様を見せるという。香を嗅がされ十兵衛に襲いかかる女たち。そこに、以前和尚らに助けられたおとね(水乃ゆり)が現れ、女たちに香の魔力に耐えるよう訴える。女たちは苦しみながら耐えるが、我慢できず十兵衛に襲いかかる。明成が様子を見に近づく。はたして中から現れた十兵衛は無傷であり、明成を捕まえる。女たちは懸命に香の魔力に耐えていたのだ。

銅伯が現れ、堀一族の女たちが十兵衛が捕まったことを知り命乞いに来と十兵衛に伝える。銅伯は十兵衛が明成を離せば女たちを七本槍と立ち合わせさせてやるという。その代わり、十兵衛にはここで死んでもらうと迫る。十兵衛はこれを受け入れる。虹七郎が十兵衛に斬りかかろうとするところに、ゆらが駆け寄り十兵衛を庇う。ゆらは十兵衛に恋をしたという。十兵衛を殺すなら自害するとも。ゆらのお腹には明成との間の子がおり、銅伯からすると、芦名の血を受け継ぐ将来の藩主を人質に取られたことになる。

場面が変わり、鶴ヶ城の地下にゆらとともに閉じ込められている十兵衛。虹七郎が和尚を連れて現れる。夜明けになれば堀一族の女どもを一人ずつ磔にするという。十兵衛は自分が助太刀するから、女たちと尋常に立ち会ってくれと虹七郎に頼む。十兵衛と勝負したがっている虹七郎を利用しようという算段である。虹七郎が去った後、銅伯の声がして、ゆらに戻ってくるように呼びかける。十兵衛を許さないのなら戻らないと答えるゆら。十兵衛が単身鶴ヶ城に乗り込んできた時から、十兵衛に心動かされていたと語る。

銅伯は銀四郎(極美慎)に命じてゆらを取り戻そうとする。ゆらを庇う十兵衛。銀四郎に動きを封じられたところに銅伯が現れ、十兵衛に斬りかかる。咄嗟にゆらが飛び出し十兵衛を庇う。銀四郎は十兵衛を斬ろうとし誤ってゆらを刺してしまう。ゆらは自らに刺さった剣を引き抜き十兵衛に渡す。その剣で十兵衛は銀四郎を切り捨てる。

ゆらが死ねば芦名一族再興の野望は潰えてしまう。そのことを悟った銅伯は自らに剣を突き刺し、天海の邪魔をしようとする。その時、銅伯が突然苦しみだす。天海の声がして、自ら命を断つことを伝える。天海から後を託された十兵衛は銅伯を切り捨てる。すぐさまゆらを抱き寄せる十兵衛。不覚を詫びる十兵衛に対して、ゆらは初めて自分の思うままに行動できとても心地よかったと返す。せめて最後に抱かれたいというゆらの望みを聞いて、十兵衛はゆらを抱きしめ口づけする。こときれるゆら。鐘の音が響き、朝が来たことが知らされる。

女たちを助けるため、十兵衛は城門前に駆けつける。そこには明成と最後まで生き残った七本槍の虹七郎が待ち構えている。磔にされた女たちの縄を切り、虹七郎と対峙する十兵衛。斬り合う二人。相討ちかと思わせて、十兵衛は虹七郎の足の筋を切り動けなくさせる。明成は鉄砲隊に発砲を命じるが、そこに幕府軍が到着する。千姫も籠に乗って到着する。同時に着いたお千絵らに指示し、堀一族の女たちが力を合わせて虹七郎に止めを刺す。明成には千姫から直々に、東慶寺で乱暴狼藉を働いた罪により領地召し上げのうえ流刑に処せられることが告げられる。

千姫は十兵衛の功績を称えるが、父の宗矩はもう一度道場に戻って修行をやり直せという。たまらず「御免」といって逃げ出す十兵衛。「こらー」叱る沢庵和尚に対し、「もうよいではないか」といって笑う千姫。

逃げてしまった十兵衛を堀一族の女たちが追いかける。十兵衛に追いつき、お礼を言おうとする女たち。十兵衛は「礼などいらぬ。俺は楽しかった」といって女たちと別れる。ここから銀橋に入り、最後のソロが歌われる。舞台中央のセリからゆらが現れ、歌に合わせて舞い踊る(オブリガート風に十兵衛のソロに絡む)。秋の紅葉を背景にしたゆらの舞が非常に美しい。十兵衛は最後に、「もう一人、俺だけが弔ってやれる女がいる」と言い残し、去っていく。

ここからは、物語をまとめながら気づいたことを記していく。

まず、これは女たちの物語であるということだ。男たち中心の社会(武家社会)によって抑圧された女たちの苦しみ、嘆き、そして怒り。それを象徴しているのが千姫である。物語は千姫の怒りによって動き出し、千姫の笑いによって閉じられる。千姫が庇護する東慶寺は、男たちによる支配から逃れることのできる唯一の場所である。そこを穢されたことに、千姫は怒る。

千姫を演じる白妙なつは、このドラマを主導する重要人物の役を貫禄たっぷりに、しかも品よく美しく演じていて素晴らしかった。

十兵衛は、女たちを助け導く役である。か弱き女を助け導く強い男という図式は、しばしば強いものが弱いものをよかれと思って支配する、パターナリズム(父権主義)に陥りがちである。しかし今回の物語はそうなっていない。十兵衛は女たちに軍学を教え込む教師であり、七本槍と対決する場面では女たちに危険が及ぶときにはつねに援護する。しかしその根本には、彼女らの意思を尊重する心構えがある。これは十兵衛の懐の深い優しさの表れと見ることもできるが、その背景には、彼自身が将軍家の中枢にいる父親の支配から逃れ、一匹狼のはぐれ者として生きているということがある。十兵衛は権威や序列を嫌い、自由に、自分の生きたいように生きている。男社会の犠牲となった女たちに共感し、ともに戦うことに彼自身喜びを感じていたのではないかと思う(実際、十兵衛は「面白い」を連発する)。

十兵衛を演じる礼真琴は、とにかくカッコいい。殺陣における動きのキレとしなやかさ、迫力ある低音ボイス、加えて父親と対する場面で見せるお茶目さ。すべてに礼の魅力が発揮されている。今回の作品は、礼の代表作の一つとなることは間違いない。

今回の物語で、もっとも微妙な立場にあるのがゆらである。ゆらは父親の銅伯の懐刀として、十兵衛や女たちを苦しめる。しかしゆらは、銅伯が自らの野心を成し遂げるための道具にされているのであり、男たちの支配する社会の犠牲者の一人でもある。自らの本心がどこにあるのかすらわからないほど、父親らの思いのままにされているのである。ところが十兵衛との出会いにより、ゆらは初めて自らの心のありかを知る。そして自らの意思に従って行動する。最後、ゆらが十兵衛を庇って死ぬことは、女の自己犠牲によって男が救われる、よくある(男に都合のよい)物語のパターンに従ってはいる。しかしここでは、ゆらの行為が十兵衛のためというより、ゆら自身の本心にかなうものであるということが大事にされている。この点が、よくある男性中心の視点による物語と異なる部分であると思う。

ゆらを演じる舞空は、このたいへん難しい役を、精一杯演じていたと思う。舞空はどちらかというと幼く見える顔立ちであるが、低めの声色を用い、遊女のような妖艶さから、十兵衛に恋する純真な乙女までを、違和感なく演じていた。

脚本・演出の大野拓史は、この壮大な物語をまとめあげ、多くの生徒に見せ場を与え、その魅力を引き出すことに成功していた。半世紀以上前に書かれたこの物語を、女たちの物語というテーマを明確にし、現代に通じるドラマに仕立て上げた手腕は評価されるべきである。

総じて、よく練られた魅力ある舞台になっていたと思う。礼の力量はもちろんであるが、それと対峙する愛月の、役者としての力量なくしてあり得ない舞台であった。今回で退団なのが残念でならない。他にも退団者は何人かいる。今の充実した星組であればこそ可能になった、今しか見ることのできない貴重な舞台である。

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