【観劇メモ】第24回 文楽素浄瑠璃の会を観る
2021年8月21日、国立文楽劇場で「素浄瑠璃の会」を観る。「素浄瑠璃の会」を観るのは2回目である。文楽は2016年から観るようになっていたが、素浄瑠璃は敷居が高い気がして、なかなか観にいく決心がつかなかった。人形の芝居がつかないので、太夫の語る言葉と三味線の演奏だけを頼りに物語を追うことになるわけで、まだまだ(今でもだが)文楽に慣れていない身としては、退屈してしまうかもしれないと恐れていたのだ。
その後、思い切って2018年にはじめて参加した。その時のパンフレットが残っているので見返してみたが、前半の呂太夫・清友による『和田合戦』はほとんど覚えていない。その後の咲太夫と燕三による『曲輪文章』は記憶にある。それまで、この有名な演目を文楽でも歌舞伎でも観たことがなかったと思うのだが、頭の中に夕霧と伊左衛門のやりとりがなんとなく絵として浮かび上がる気がした。
余談になるが、このときは片岡仁左衛門がゲストとして登場し、咲太夫と対談している。咲太夫と仁左衛門は同い年の幼馴染ということで、二人ともとてもリラックスして話をしていたように思う。仁左衛門が終始、咲太夫を立てていたのが印象的で、仁左衛門さんの素朴で控え目な人柄を感じることができた。
さて、今回の舞台である。13時開演だったので、自宅で急いでお昼を食べ、会場へは10分ほど前につく。劇場前では、ポスターや幟を撮影している人がいた(観劇の個人的な記念か、あるいはS N Sに載せるのだろうか…)。会場はこのコロナ禍にもかかわらず人であふれていた。本公演の千秋楽でもこんなに満員になることはないのでは?というくらいの大入りだった。
2018年のときはゲストの仁左衛門人気のせいもあるのかしらと思ったが、「素浄瑠璃の会」はいつもこうなのかもしれない。とはいえ、緊急事態宣言下の開催で、これだけ人が入るということは、この会が年に一度、一日しか公演がなく貴重だということを差し引いても、熱心な義太夫ファンが多いことがわかる。おじさま、おばさま方が多かったが、若い人もちらほらいた。
最初の演目は千歳太夫・富助による『彦山権現誓助剣』から「毛谷村の段」。『彦山』は数年前に一度本公演で見ているはずだが、パンフを読んでもほとんど話を思い出せない。ところが千歳太夫の渾身の語り(と富助の盤石のサポートないしはリード)のおかげで、多彩な登場人物らのキャラクターが浮かび上がってきて、これが非常に楽しかった。
簡単にいうとこの話は、お園とお菊という姉妹が、殺された父親の敵討ちを果たす物語である。とある国の剣術指南役を務める吉岡一味斎(お園とお菊の父)は、お菊に横恋慕する同じく指南役の京極内匠(たくみ)に暗殺されてしまう。姉妹は二手に分かれて敵を追うが、妹のお菊は途中で内匠に殺されてしまう。今回の「毛谷村の段」は、かつて一味斎から才能を見込まれ、奥義を授けられた剣術使いの六助とお園とが出会い、事情を聴いた六助が敵討ちに加勢することを誓うまでを描く。
六助はひょんなことからお園の妹のお菊の遺児である弥三松(やそまつ)を預かっている。母に会いたいと泣く弥三松をなだめながら、六助は「もっともぢゃ」と言ってもらい泣きしてしまう。こういう泣き芸は千歳太夫が得意とするところで、観客の心を最初から掴んでいく。
そこへ虚無僧の格好をしたお園が現れる。子供の着物が表に干してあるのを見つけ、出てきた六助を敵と思い込み斬りかかる。一悶着あった後、誤解が解け、相手が許嫁の六助と分かった途端、お園は急にしおらしくなり、「お前の女房は私ぢゃぞえ」といって勝手に台所をかりて夕飯の仕度をはじめる(尺八と火吹竹を取り違え一人上機嫌に笑ったりしている)。困惑する六助。それまで勇ましくしていたお園の変わり身が面白く、また可愛らしくもあり、思わずこちらも笑ってしまう。
お園が一味斎の娘とわかると、今度は六助がかしこまった態度になり、お園を上座へ上げこれまでの事情を聞く。お園から敬愛する師匠が殺されたことを知って悔しがる六助。やりとりを聞いていた一味斎の妻(この前から六助の家に上がり込んでいた)が登場し、娘の結婚を取り仕切るとともに一味斎の形見の刀を婿となる六助に与える。この後も急展開がつづくが、省略。
子供からお婆さん、地元の樵まで、とにかく登場人物が多彩であり、かつまたみな感情の起伏が激しい。千歳太夫はすべての人物を丁寧に描き分け、声だけでなく持ち前の豊かな表情と身体全体を使う動きで、それぞれの人物の心情を巧みに表現していた。
正直にいうと、本公演での千歳太夫は、振幅の大きい表現に努めているのは伝わってくるのだが、声の調子が整っていないことが度々あり、なんだか空回りしているように聞こえることもあった。今回は一回だけの公演ということもあるかもしれないが、全身全霊を込めた語りが、きちんと表現としてこちらに届くものになっていて見事だった。
15分の休憩をはさんで、咲太夫・燕三による『新版歌祭文』「油屋飯碗の段」である。有名な「野崎村」は見たことがあるが、この「油屋」は、おそらくこれまで文楽の舞台で見たことがなかったと思う。この日は咲太夫の調子があまりよくないと見え、あまり集中して物語に浸ることができなかった(予習せずに挑んだこともあるが、期待していただけに残念ではあった)。とはいえ、この段はセリフだけの語り芝居が多く、いろんな登場人物らのやりとりを描くところでは、生き生きした語りが戻ってきた。滑稽な場面ではしばしば笑いも起きていて、観客の受けはよかったと思う。
さらに15分の休憩をはさんで、最後は『女殺油地獄』「豊島屋油店の段」。織太夫と清志郎が組むのは私がみている限りでは珍しいように思う。『女殺』は本公演の舞台でも最近見ているし、テレビでやっていた「杉本文楽」でも(縮尺版であるが)見ている。関係ないかもしれないが、若い頃の堤真一が与平を演じる映画版(近松の原作を大幅にアレンジしている)もプライムビデオで以前に見た(これはこれで昼ドラ風で面白い)。
この狂言は、最後に油壺がひっくり返され、人形が滑って転げ回る(ようにみせる)演技が見ものであるとは思う。けれども、近松の作品はやはり緊密に構築されたドラマ性が魅力であり、語りだけで聴いても面白くなることは予想できた。
予想に違わず、集中して聴き入ってしまった。人形が入った舞台を知っているだけに、ここのところはあの場面だなとか、ここはあんな感じで人形が動いていたなとか、具体的な情景が思い出されてくるのだった。さらに今回は、人形がない分、語り芸としての魅力が率直に伝わってきた。
織太夫は言葉の粒立ちがよく聞きやすい。声にハリと艶があり音程もよいと感じる。フレーズを納めるところなどで三味線の音と心地よく共鳴する。もっとも西洋音楽とは基準が異なるので、それが浄瑠璃としてよいのかどうかはっきりしたことはわからない。だが、音程(音感)がよいかどうかというのは、やはり太夫のよし悪しを決める基準の一つになるのではないか。
三味線の清志郎もまたよい。「切っ先鋭い」という言葉が真っ先に思い浮かぶ音と間合いで織太夫の語りを盛り立てる。清志郎は見た目からして眼光鋭く、正面から見据えられると怖いくらい。その清志郎が「ウッ」「ハッ」と掛け声を発しながらしばしば目を見開くとき、音だけではない何らかの波動がこちらまで飛んでくるように感じる。
この段の眼目は、やはり殺しの場面にあると思う。「金貸してくれ」「いや貸せない」と、与平とお吉が問答を繰り広げる。与平の必死の願いもむなしく、お吉は貸せぬときっぱりいう。以前の「野崎参り」の際、お吉は与平の着物を洗ってあげたことで不義の謗りを受けていたこともあり、夫の留守にまた与平を助けたとなると申し開きができない。だが与平は、「不義になって貸してくだされ」とまでいう(冗談なのか本気なのか)。
そうして断られた挙句、与平はお吉を殺めることを決意する。この後も、人が人を殺すというのはこんな感じなのかと思うリアリティあふれる描写がつづく。
与平がもつ脇差に気づいたお吉は、逃げようとするが逃げられず、「出会へ」と声を上げる。すかさず与平は「音ぼね立つるな女め」と言いつつお吉の喉元をぐっと刺す。ここから先、与平がお吉を殺める様子が近松の豊穣な言葉によって描かれる。自分で殺しておきながら、日頃勝気なお吉の死に顔を見てゾッとし、膝をガタガタさせるシーンもリアルだ。
文楽ではおよそ、とくに時代物では、腹に刀を突き刺してから延々としゃべるなど、人が死ぬ場面の描き方が荒唐無稽に感じられることが多い(お約束なのであまり気にしないが)。しかし、近松のこの演目では、現代的な感覚からしても、十分にリアリティある殺人の描写になっている。人形入りで見たときもそのように感じたが、今回素浄瑠璃で聴いても、やはりそう思った。
今回は5列目中央という、たいへんよい席で見ることができた。太夫とまっすぐ向き合う位置だったので、しばしば目が合うように感じた。途中眠りかけたり、パンフレットに目をやったりで申し訳なかったと思う。ふだん本公演では人形に目が向くことが多いのだが、今回は太夫と三味線だけを見て、その語りと演奏に聴き入ることができた。ここに書いたこと以外にもいろいろと発見があった。できればまた、来年も参加しようと思う。