見出し画像

連載小説「遥か旅せよ」 第1回『この金は誰のもの』(白木 朋子)

 このコールセンターで私たちオペレーターはキャストと呼ばれている。
 客から向けられる理不尽なお叱りや、筋の通らない要望にも「笑声(えごえ)」と呼ばれる明るい声色で「恐れ入ります」と交わしていくのが私の仕事だ。電話口の声に真摯に耳を傾け、時にあざやかな態度で解決方法を提案する。
「あんたのとこの携帯で何度も彼に電話してるのに、全然出ないんだけど。電波障害か何かじゃないの」という語気が強めの女性からの問い合わせには、お使いいただいている弊社端末の機種、機能や電波状況が正常であることを確認した上で、こう切り出す。
「大変申し上げにくいことですが、お客様のおっしゃっている『彼』は、もうあなたの『彼』ではないかもしれません」
 しばしの静寂ののち、イヤフォンから女性の悲鳴のような泣き声が漏れ、思わずヘッドセットを外した。隣の席で別の客の対応をしていた後輩がぎょっとした目で私を見る。私は再びヘッドセットを装着し、お客様情報から得た彼女の名前を呼びながら「大丈夫ですか、聞こえますか」と問いかけ続けた。
 やがて、「少しだけいいですか」と彼女から涙まじりの声が返ってきて、「お話しください」と私は応じ、キーボードを打つ準備をした。彼女の話は彼との出会いから始まり、甘い時間の数々、牛乳パックの開け方が上手かったこと、二人で通った飲み屋街、お金を貸していたこと、彼の優しさ、けれど急に訪れた既読すらつかない態度、彼を待ちたい気持ち、信じたい気持ち、でももしかして彼は、もう私を、とどこかで分かっていたと続き、私は客との通話内容を記録するパソコン画面がいっぱいになるほど彼女の物語を打ち込んだ。イヤフォン越しに聞こえていた泣き声がようやく収まる頃、私もやっと頰を拭った。自分がなぜ泣いているのか分からなかった。それからしばらく、私たちは黙ったまま通話を続けた。

 ロッカールームに併設された簡素な休憩室の隅に座り、昨晩詰めておいたお弁当箱を開いた。原宿駅から明治通りを五分ほど歩いた場所に立つこのビルに大きな窓はあるけれど、休憩室のそれには愛想のない布地のブラインドが終日下ろされ、天気はおろか、街の様子を眺めることさえできない。隣のテーブルでは数人の女性のグループが皆黙って各々携帯を見ている。暖房と加湿器の作動音だけが弱く響いていた。
 トマトを一切れと鶏の煮物を少し食べた頃、フロアで隣席の後輩・近岡が「ここいいですか」とこちらの返事を待たずに向かいの椅子に座った。近岡はコンビニの袋から<タピオカクッキー&クリームジンジャー黒豆ミルクティー>と書かれた飲料を取り出し、上下にバシャバシャと振ってから、咥えづらそうな太いストローを容器に挿した。
「はるかさんって演技派ですよね」
 真っ黒な物体が半透明のストローから近岡の口へ運ばれていくのが見えた。
「お昼、それだけ?」
「結構お腹にたまるんです」と言って、近岡はタピオカを豪快に咀嚼した。「今日もお弁当ですか、毎日えらいですね」
 彼女は今週末で退職することが決まっている。同僚から転職先を聞かれた時、メディア関係で、外で会社の名前出すなって言われてるんで、といたずらっぽく笑っているのを見た。
「ここって時給低いじゃないですか」と近岡が小声で顔を寄せてくる。
「そろそろ派遣とか辞めようかなーって。はるかさんだって、あの演技力なら他で絶対もっと稼げますよ」
 別に泣こうと思ったわけじゃ、と思ったけれど、言わなかった。
「今のうちに稼いでおけば、あとがラクじゃないですか。はるかさんも貯金してるって言ってましたよね」
「ああ、あれやめた」
 半分以上食べ残したお弁当の蓋を閉じながら私は答えた。
「えっ、だって結婚資金貯めてるって、だから自炊してシフトも増やして」
 近岡は嫌味ではなく本当に驚いているようだった。新しい場所へ行ってもあなたはそのままでいてね、と思いながら、私は近岡の丸い肩に軽く手を置いて休憩室を後にした。お腹がいっぱいだった。

 確かにそうだったかもしれない、と私は思った。その日の最後の客との通話を終えて渋谷駅まで歩き、バスに乗って九時過ぎに笹塚のマンションへ帰った。築三十年以上の南向きの部屋は電気のスイッチまで冷え切っていた。夕食を作る気も食べる気も起きず、シャワーだけ浴びて髪の毛を適当に乾かし、ストーブを点けて缶ビールを開けた。
 確かにそうだった、私は結婚するためにお金を貯めていたのだった、と思った。でも本当にそうだったのか。私は本当に結婚したいと思っていたのだろうか。あるいは彼の方だって、本気で私と人生を共にしようと考えていたのだろうか、それならばなぜ、私たちはいま隣にいないのだろう。なぜ彼は私との船を下りたのだろう。
 机の引き出しから預金通帳を出して開いてみる。行を追うごとに連なりを増していく数字を眺めながら、へえ、よく頑張ったじゃん、と他人事のように思う。そして、このお金は一体いま誰のものなんだろうと考える。今のうちに稼いでおけば、あとがラクじゃないですか。私のあとはいつの、誰との時間なのだろう、と考え始めそうになって、通帳を閉じた。
 私は私たちのためにお金を稼いで、貯めて、私たちの未来を想像して、電話口で怒鳴られて、謝って稼いで我慢して、そしていま一人になった。私たちのためのお金はもう必要ない。通帳に記されたこの数字はもう誰のものでもないのだ。
 二本目のビールを開けた時、携帯の画面がぴかんと光った。

〈ヤスハル からメッセージを受信しました〉
 ヤスハル:バイト代入った。かりてたのかえすわ

 泰晴は十歳離れた大学生の弟で、この部屋と同じ沿線にある実家で両親と暮らしている。

 はるか:いいよ、すぐ返さなくても
 ヤスハル:なんで
 はるか:たまにはお母さんたちに御馳走したら
 ヤスハル:なに、よめない
 はるか:ごはんとか連れていったら喜ぶよ
 ヤスハル:なんで
 ヤスハル:ねえちゃんたちつれてけよ
 はるか:無理
 ヤスハル:なんで
 はるか:お前はナゼナニの子か
 ヤスハル:え、
 はるか:あと漢字使え
 ヤスハル:お姐さん
 はるか:違う
 ヤスハル:え、フラれた?
 ヤスハル:え
 ヤスハル:まじ
 ヤスハル:あ、ごちそうね
 ヤスハル:しらべた

 こういう時の話題の切り替え方が絶妙に上手くないところが泰晴だ。けれどその不器用さに救われる人が彼の周りにどれだけいるだろう。

 はるか:お金、急がなくていいよ。とりあえず
 はるか:いいけど、何に使うの普段
 ヤスハル:あそび?
 はるか:バイトしろよ
 ヤスハル:してるよ
 はるか:デートとか?
 ヤスハル:とか、旅行とか?
 はるか:へえ。いいね
 ヤスハル:行けば?
 はるか:いや仕事あるし
 ヤスハル:こんどなんとかの日あるじゃん

 祝日はコール数が増えるのと、休日手当を励みに大抵シフトを入れている。けれど、今度はフロア全体の保守点検日で臨時休暇になっていた。

 ヤスハル:ねえちゃんはもっとねえちゃんをたのしんだほうがいいよ

 何も返信できなかった。たのしむ、という言葉の意味と漢字を思い出そうとすると、通帳の表紙から中に並んでいた数字が浮かび上がって空中でバラバラに散った。そして意味を持たない暗号化されたパスコードのように、それらは私とは全く関係のない存在として部屋の中を浮遊した。
 私には趣味と言えるものはないし、お金の使い方も知らない。だけど、このお金を使えるのは私しかいない。私を生かすも殺すも私次第だ。
 そして、私には旅に出る理由がある。誰のためでもない。あとがラクになるためなんて知らない。使わなきゃ、自分のために。あとではなく、今のために。私が目指すのは遥か彼方、あるいはすぐに手の届く場所。浜辺で砂を一掴みしたら、森の木洩れ日を浴びにゆけばいい。どこへ向かうも自由、そして旅のあとはまたここへ帰ってくる。この古い小さな部屋の私の中へ。

 国際線の機内食で目的地のローカルフードが提供されることには元々疑問があった。これから降り立つまだ見ぬその土地への期待や、現地で本場の味を体験してみたい、という多くの人にとって重要な旅の目的を阻害していないか、と思いながら、私は使い捨てのアルミ容器に入ったグリーンカレーを見つめた。ここで食べてしまったら屋台をはしごする楽しみが減りそうだなと思ったけれど、ナンプラーやココナッツミルクの香りが機内いっぱいに広がる中、私はカレーに伸ばす手を抑えることができなかった。そして、私はこの「機内食ローカルフード問題」への答えにのちのち圧倒的な実感を持って打ちのめされることになる。

 カレーに加え副菜のヤム・ウンセン(春雨サラダ)まで完食し、少しうとうとしていると、機内にポーンというこもったような電子音が響いた。さっきまで雲海を眺めていた窓のブラインドを上げると、綿のように薄い雲とその下に広がる大地がはっきりと見えた。人の姿はないかと目を凝らしたけれど、大通りを走るバスや大型トラックがかろうじて見えただけだった。
 「皆様、当機は間もなくバンコク・スワンナプーム国際空港に着陸いたします。ただいまの時刻は午後二時一五分、天気は晴れ、気温は三十三度でございます」
 私は肩に掛けていた薄手のダウンジャケットを丸めてリュックへ押し込んだ。機内の温度はすでにこの街の熱気を帯びて蒸し始めていた。

                         (第2回へつづく)

*しらき ともこ
東京都在住。洋食レストランと映画館に勤務(只今どちらも休業中)。
せいかつひつじゅひん、が言いづらい。

いいなと思ったら応援しよう!