今更ですが、アフリカ女子が長めの自己紹介します。
まぁせいぜい10件くらい「いいね」ついたらいいかな〜と思って、フォロワーさんに報告のつもりで「就職活動終わりましたツイート」をしたら・・・
なんと24時間後にいいね460件以上、フォロワーさんが100人以上増えてました。
シンプルにびっくり。一瞬「あっ、これツイートしなきゃよかったかも」という考えが頭をよぎったりもして、ただただ困惑。
増えたフォロワーさんがどんな人かもわからないので、とりあえず悪意がある人じゃなければいいなぁ、アンチコメントとかつかないといいなぁ〜とガクブルしながらツイッター開いてます。
まずは私のことを知らない人が多いだろうから、今更ですけど、私のこれまでの生い立ちから長々〜〜〜く自己紹介しようと思います。
🌻自己紹介
ゆっこです。
一応あだ名は「ゆっこ」のはずなんですが、最近はゆりさん、ゆり先輩、ゆりちゃんと呼ばれたりもしています。
現在修士2年ですが、留学の影響で修士自体は3年目をしています。大学・大学院と一貫して鳥取で、専攻は農学(特にバイオテクノロジー)です。勘違いされやすいのですが、農業をしているわけではありません。
トビタテ留学JAPANの9期生で、ボツワナ共和国に留学してました(後述)。
🌻生い立ち
【ルーツ】
国籍は日本ですが、韓国人母と日本人父に育てられました。
生まれてすぐに養子縁組をしたので、誰が本当の両親かはよくわからないです。でも育ててくれた人たちが自分の親だと思ってるので、血縁とかはあまり興味がないです。
紛らわしいので対外的には「日韓ハーフ」と説明してますが、実は厳密に言うと違います。
なお小さい頃は日本語と韓国語の両方が喋れてたみたいですが、私が小さかった当時は、まだ韓国人差別が根強く残っていて、「ご近所さんから変な目で見られたり、いじめの原因になるかもしれないから」ということで、親から韓国語を喋るたびに怒られるにつれ、話せなくなりました。
小学生の中学年くらいになってようやく、冬ソナをはじめとした韓国ドラマや、少女時代やKARAのようなK-POPがブームになって、今では韓国好きな人たちがたくさんいます。もし私があと10年くらい生まれるのが遅かったら、もしかしたら韓国語も喋れてたかもしれません。
ちなみに、アイデンティティがどちらにあるかというと、勿論日本です。だって日本で生まれ育ったし、韓国語が喋れなければ韓国文化に精通してるわけでもない。食べ物は韓国料理の方が慣れ親しんでるけど、基本好き嫌いをしないのでこだわりがあるわけではありません。
でも韓国に対して否定的な人を見ると、自分の親を否定されている気がするから嫌です。「生まれ、人種や国籍で人を判断しないでほしい」という想いは、自分が幼少の頃からずっと、ずっと、ずーっとありました。
でも結局、大学時代にわりと仲良くしてた子がいわゆる「中国・韓国嫌い」の子だったので、自分のルーツは打ち明けられず・・・。こうして周囲に話せるようになったのは、友達がみんな卒業して、私が大学院に入ってから(結構最近)でした。
【中学】
名古屋の家から近い公立中学校。小学校の頃は結構勉強はできた方だと思うんですけど、中学に入ってから一気に落ち込みました。
ひと学年100人くらいしかいなくて、最初入った時は良かったんですがそれから下がりに下がって、悪い時は90位とか。特にこの頃は先生との相性がすこぶる悪くて、学校が大っ嫌いでした。
3年生になって「塾行きたい」と自ら頼み込んで個別指導塾へ通い始めました。割とすぐキレる、超絶スパルタの教育大学生バイトの先生に怒られながら毎日のように通った結果、成績が50位くらい一気に上がりました。
そうして頑張った結果なのに、中学の先生からは「どうせカンニングしたんでしょ?」と職員室に呼び出されて、尚更中学へ寄り付かなくなりました。ちなみに高校受験は失敗し、第二志望の私学になりました(そもそも公立1校と私学1校の2つしか受験してなかった)。
【高校】
高校は、地元・名古屋の、ひと学年500人いる超マンモス私立校出身で、名古屋でも「荒れてる」「馬鹿高」で有名なところの特進コース。こんだけ人数がいるにも関わらず、私の年は私を含めて国公立合格者3人。
あまりに昔っから悪名高いせいか、未だに名古屋出身の50歳とかのおっちゃんに出身高校を話すと「えっ?あの高校出身なの?(笑)」「へ〜私より馬鹿なところだ(笑)」と、出身高校でマウント取られることがあります。
おかげさまで、マウント取られることには慣れました。
でもこの高校に通ったおかげで、素晴らしい先生たちに巡りあえたし、自分の人生を大きく変えるきっかけになりました。今でも何かあれば近況報告をしたり、ちょくちょく高校に遊びに行ったりもしています。
昨年度はパンフレットの1ページをまるまるっと私のインタビュー特集を掲載してもらったりもしました。(画質悪いけど一応アップしておく)
高校1年の時にオーストラリアのアデレードの姉妹校に3週間の語学研修へ行ったことをきっかけに留学が目標になり、2年生の時はオーストラリア人2人をホストファミリーとして受け入れました。また、3年次の長期休暇を利用して個人的に再度オーストラリアのホストファミリーを訪れしばらく家に泊めてもらい、そこを拠点に3週間ほど旅行したり友達に会ったりなどしました。
この経験がなかったら、もしかしたら今私はアフリカに留学なんてしてなかったかもしれません。
【大学受験】
もともと母親が医療系で、自分自身も医療の道を進むつもりでいました。
高校生の頃の希望進路は薬学部。
けど高校3年の秋に父親を亡くしたことをきっかけに、「人の死に向き合うことの難しさ、辛さ」を実感し、医療への道を諦めてしまいました。
ずっと憧れてきて、当然のように医療の道に進むものだと育ってきた私は、受験を直前にして進路を見失い途方に暮れました。
そんな時、母が「農学部にしたら?」と提案。母が若い頃に参加した国境なき医師団の経験から、「私たちは病気になった人を救うことはできても、貧困や飢餓に苦しんでる人の根本的な問題を解決することはできなかった。食は命の源であり、農業がたくさんの人の命を救う可能性を持っている」と言ったことに感銘を受け、農学の道を志すようになりました。
その中でも国内で唯一、乾燥地農学を組織的に行なっている鳥取大学農学部に興味を持ち、受験することにしました。(途上国の多くは乾燥地に属しており、近年温暖化や人間の無理な開発により砂漠化が進行し、貧困や飢餓の原因となっていることから乾燥地農学に興味を持った)
【大学】
(部活)
大学では写真部に所属し、大学三年の時は部長をしてました。他に美術部と剣道同好会にも所属してたんですけど、写真部にかける熱量が大きすぎてそっちの方はあまり行けてなかったです。
部室で暗室現像が出来るのが魅力だったので、徹夜して一晩中暗室にいることもしばしばありました。1番の青春だったと思います。
この辺りの話は思い出話として追々別の記事にしますが、フィルムカメラのCanonEOS55とデジタル一眼レフのCanon6Dが当時の愛機で、大学院になってからは主にOLYMPUSペンOMD EM10をずっと使っています。
(留学)
留学に行きたいという気持ちがずっとあったので、大学1年時に2週間の国内語学研修、オーストラリアに6週間の語学研修、2年時にタイのコンケン大学の菌類演習(短期留学)に挑戦。
その後はずっと「留学に行きたいな」という気持ちを温め続けていました。
(人間関係)
私の恋愛遍歴が割と壮絶(?)なので、この辺りは別記事にします。
🌻アフリカ留学のきっかけ
そんな風に育った私がなんでアフリカへ留学をしたかというきっかけの部分は、こちらの記事を参照してください。
🌻留学の話
アフリカ南部・ボツワナ共和国には合計15ヶ月留学していました。
2018年9月下旬〜2019年8月初旬 トビタテ留学JAPANで交換留学
2019年11月初旬〜2020年3月下旬 私費で交換留学
2度目の留学、本当は2020年7月までのはずだったんですが新型コロナウイルスの影響で泣く泣く強制で留学終了ということに・・・。
🌻今後の進路と選んだ理由
冒頭のTwitterよりみなさんお察しの通りですが、今後も開発途上国の開発に関わる仕事に従事することになりました。
最初は「博士課程に進学するのもいいな〜」とか「農業分野に関わること(協力隊、JICA専門家)したいな〜」とか「農業を学ぶために就職せず、田舎で長期インターンしたいな〜」とか思って色々と迷走してたんですけど、
やっぱりボツワナでの経験から、「国全体にインパクトを与える大きいプロジェクト=国づくりに関われたらいいな」と思ったことが主な理由です(その辺は上記のリンクの記事で書いてあります)。
今後は、できれば農業・農村開発を中心に自分の専門性に近いことだとか、アフリカに関わることができたらいいな〜と思っていますが、何処かのタイミングで自分の専門以外の分野も経験しても面白そうだなとも思っています。
というわけで、こんな私ですが、どうぞよろしくおねがいします( ˘ω˘ )