ボツワナ留学第二弾が中止になった。
日本に帰国してから2週間が経ち、いよいよ明日で14日間の隔離が終了します。2週間経った今では、当時思ってたことよりももっと広い範囲のことが見えてきて、だいぶ落ち着きました。アップしようかしまいか悩んだんですけど、やっぱり今ある気持ちだとか、当時の気持ちだとかをきちんと整理して、前に進んでいかなきゃ行けないので書くことにしました。
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※帰国の飛行機の中(具体的にはボツワナからエチオピア)で書いたベース文章に基づいて書きました。文章の順番とか構成とか全く考えずにベタ打ちしたものがそのままなので、読みにくいと思うんですけどごめんなさい()
帰国することになってしまった。
私は、修士の間に、2度の留学を経験した。1度目は、文科省が官民協働で展開している「トビタテ留学JAPAN」という制度を利用した、2018年9月末〜2019年7月いっぱいまでの約10ヶ月間の交換留学。2度目は、奨学金やバイト代を貯めての、2019年11月〜2020年7月末までの私費留学。
2度目の留学をするにあたり、私は様々な覚悟を決めて日本を出発した。
本当は2020年3月に修士課程2年間で留年せずに卒業できるところを、留学のために3年間に延長したこと。時期的に本来学生が就職活動をする期間に丸かぶりしてしまい、インターンシップ等に参加ができず、就職活動を行う3月〜7月の重要な時期に日本にいない・それが不利になるかもしれないということ(当時はコロナなんてなかったので、ほとんどの企業がweb上での説明会や面接を実施していなかった)。
社会人になること、すなわち自立が遅れることで親に資金面で迷惑をかけることに後ろめたさを感じたこと。日本の所属研究室に、私が「先輩」としても、研究者としても、貢献できないこと(私がやってるテーマはボツワナ側のもので、共同研究してるわけではないため)。
行くか行くまいか、本当に行くことが自分にとって正しいことなのか、日本出国のギリギリまで悩んだ。トビタテの中でも、卒業後就職する修士で留学をする人の多くは、1年後かそれ以下で帰国し、3月からの就職活動を日本で過ごすと思う。でも、自分を決断を信じて、思い切って留学へ行くことにした。
私は、1度目の留学ですごく悔しい思いをした。自分が「こうしたい」「こんな結果を出したい」と思い描いていたことが、様々な原因によって達成しなかったから。
それは、単純に途上国ならではの断水だとか停電だとか設備が不十分だとか、そういうことも理由の一つだけど、一番は、最後まで頑張りきれなかった自分の責任だったと思ってる。
帰国後、それが悔しくて、どうしても再チャレンジしたくて、改めて実験計画を練り直した。出来る限り予算が少なくて、ボツワナでしか出来ないことだけど先進国である日本でしか出来ないことを「良いところ」をあわせた研究内容で、自分自身でどんな研究デザインにするかイチから考えなきゃいけなかった。
考えるにあたって、先生は「もっと論文を読みましょう」くらいしかアドバイスをくれなかったので、3日に1回は徹夜して、毎日毎日論文を読んで、わからないことは指導教官だけでなく別の研究室の先生や先輩に聞きに行ったり、トレンドを知るために鳥取から奈良までわざわざ足を運んで学会を聞きに行ったり、他大学の知人に聞くなどして、実験計画を作り直した。
トビタテの事後研修もあったし、研修に来た外国人の研修とか、新しく入った留学生の生活支援だとか、新しくラボに入った3年生の研修だとか、後輩への留学の経験発表、短期語学研修いく学部生向けのプレゼン、正直めちゃくそ忙しかったけどそれでも頑張った。
本来研究室では、学生は基本的に研究室で走ってるプロジェクトに対して貢献するけど、私は研究室の所属でありながらも、もしかしたら先生の実績にも何にもならないようなことをしてる自覚はあった。でも研究室側からちょっとした機材を新しく買ってもらうだとかしてもらって、予算がない中で先生がいろいろと配慮してくれた。申し訳ない気持ちだったが、同時に先生にすごく感謝したし、ちゃんと活動しようって改めて身が引き締まった。せっかくチャンスを与えてもらったから、その中で精一杯やろうと思った。もし私の実験結果が何かしら得られたら、もしかしたら次につながるプロジェクトが日本とボツワナの共同研究として立ち上がるかもしれないし・・・。
思い返せば、出国直前も、鳥取から成田空港に向かうまでにスマホ落としてバキバキに割っちゃうとか、帰りの航空券がないなら行きの飛行機にも乗せませんって言われたりとか、スーツケースの取ってが取れるだとかいうトラブルに見舞われた。
渡航してからも、ビザの取得がややこしいことになったり、所属先の研究室と意見の相違があったり、つくはずだった予算がつかなかったりして(ボツワナの先生、これを私に連絡してくれなかったので私がボツワナに来るまで知らなかった)、一時は「このまま何もせず日本に帰ることになるかも」という状況になった。
でも全部乗り越えて、日本の先生、ボツワナの先生とたくさん話し合って、何度もお願いしに行って、最終的に実現した。めちゃくちゃ時間かかったけど、何とか次に進めることができた。
大きな額ではないものの自腹で払わなきゃいけない場面もたくさんあって、奨学金がない中で、自分のお小遣いから出した。
たくさん挫折と困難を乗り越えてきて、やっと始めたプロジェクトが、新型肺炎のせいで突然強制帰国になってしまい、継続ができなくなってしまった。
悔しい。
私は協力隊の人たちとは違うことをしてるけれど、その中で精一杯頑張っていて、正直、中途半端な気持ちで参加してる人に比べたらずっとずっと想いは強い自信がある(こういうのって結局「結果が出せたか」が大事なので本当は想いの強さなんて人と比べるものじゃないしそうするべきじゃないけど、でもやっぱそう思う)。
あと1ヶ月か2ヶ月あれば、今回の計画で一番重要な、実験のサンプリングができて、あとはそれを持ち帰って分析して、1回目の留学で得た結果とあわせて、早めに修士論文を終わらせるつもりだった。実はもう修士論文書き始めてて、あと結果と考察書くとこぐらいまでは下書きがあった。
それが全部台無しになった。ボツワナ側は大学閉鎖になったし、大学の判断で私の帰国が決定してから、私がボツワナを出発するまでに24時間もなかった。しかも週末。こんな短時間の間で、他の人への引き継ぎもできなかった。私がここまで育ててきた植物たちは、きっと枯れちゃうだろうな。多分、実験テーマも変わることになる。何のために留学したんだろう。
(それと日本人とボツワナ人と一緒に、アフリカ布製品を作ったりして日本に輸出できないかな〜と話していたところで、試しに細々とやってみて、うまくいけば継続してやっていけるようにしよう、と、丁度計画してるところだった。こっちも完全に中止・・・)
博士に進学するだとか休学するだとかという手もあるけど、新型コロナウイルスが世界中に蔓延してるこの状況がいつ終わるかも分からなくて、この不況で仕事に支障が出てしまい、お金のやり繰りに苦労している家族をみると、どうしてもこれ以上わがままを繰り返して親に甘え続ける訳にもいかないと思ってる。
ボツワナ帰国の判断がくだって(3月27日12時)から実際にボツワナを出国するまで(3月28日15時)に時間が全然なくて、お別れとかちゃんとできてないのもすごく心残り。
本当はまたボツワナに戻りたい。正直ボツワナの方が友達多い自信ある。
1度目は選考を乗り越え奨学金を勝ち取って行った留学、そのあとはコツコツバイトして今まで貯めてきたお金を切り崩しながら行った留学、クラウドファンディングで見ず知らずの人に応援してもらってボツワナ人に持ってくお土産を買うこともできた。
自分が「(研究とかの結果を出せると)期待されていた」とは思わないけれど、いろんな人から少なからず応援されながら始めた留学だと思う。
いろんな人たちの思いを裏切ってしまうような気がして悲しいし、今までいろんなことを犠牲にして準備してきたことが全て水の泡になってしまって悔しい。
本当に悔しい。
こんなに悔しい思いを、挫折感を味わったのは、大学や大学院時代だけに限らず、私の人生の中で初めての経験だと思う。
結局、仕方ないものは仕方ないから、いま自分にできることを自分にできる範囲でやるしかないので、帰国したらうだうだ落ち込んでないで、前を向いて次に進もうと思うけど、今はとにかく挫折感しかない。
機内のスクリーンに写し出される飛行機の現在地が、ボツワナからどんどん遠ざかってくのを眺めながらまた泣かずにはいられなくて、ボツワナからアジスアベバまでの道中5時間、結局ずっと泣いてる。
マスクをつけていたし、幸い私は窓際で隣の席には誰もいなかったのと、飛行機の音がうるさくて誰も私が泣いてるだなんて気付かなかったと思う。
もうすぐアジスアベバに着く。きっと眠ってしまえばすぐ日本だ。
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上記の文章、ハボロネ(ボツワナ)〜アジスアベバ(エチオピア)間で書いたんですけど、帰国して鳥取に着くまでは紆余曲折ありました。
まず飛行機の路線ですが、ボツワナ(ハボロネ)〜エチオピア(アジスアベバ)〜韓国(仁川)〜日本(成田)という路線です。当時韓国からの入国者は、乗り継ぎの乗客であっても日本で隔離など厳しい検疫の対象となってましたが、ボツワナが空港閉鎖になる関係で、この路線が日本に帰れる最後の便でした。
エチオピアでの乗り継ぎは1時間10分。通常、国際線の乗り継ぎは遅延のリスクなどを考えると3時間はあった方がいいと言われています。この時点で既にかなり厳しいのに、飛行機は遅延しました。
当時、各国が続々とロックダウンを発表したり、様々な路線がキャンセルになって飛行機が飛ばなくなった関係で、飛行機から出れなくなって空港に取り残される人々がたくさんいました。映画「ターミナル」のような状況です。
一方で、私の所属先大学は口頭で「学長判断です。帰国してください」と伝えてきただけで、メールも何もなし。正式文章にするのは時間がかかるっていうのは理解できるけど、メールにもしないってどういうこと?と思い不満と不安がありました。
なぜならそのメール(日付入りである必要アリ)がなければ、3月24日の段階で大学から「留学引き続きお気をつけて」というメールが来ているため、もしこの帰国の途中で万が一があった時に「フカウチが勝手に帰国して、そのせいで帰国難民になった」と言われかねない状況だったからです。しかもその段階で飛行機キャンセルの可能性は大いにあり、私がエチオピアで「日本にも帰れずボツワナにも戻れない」「帰国難民」になる可能性が非常に高かった。
だからこそリスクヘッジのために一通だけでも文章面で「大学が帰国判断をした」という証明が欲しくて、その旨を書いて大学に送ったメールは無視されました。結局、私の方から3度ほど催促した結果、ちゃんとしたメールが貰えたのは4月9日のことです。
(そんな中でも指導教官、国際交流課の職員さんと先生の3人はLINEでこまめに連絡を取りながら助けてくれました。感謝しかないです)
具体的にはこちらのリンクからリプライ欄で重ねて書いています。
結局飛行機がボツワナを出発したのは、15時20分予定だったのはずが15時40分を過ぎた頃で、この段階でエチオピアでの乗り継ぎ(トランスファー)予想時間は50分。しかも予想どおりエチオピアの空港ではWifiも繋がらず、各国からの帰国者が乗り継ぎ殺到していました。社会的距離も何もなく、お互いどこから来たかもわからない人たちが、ギュウギュウになってました。
ごめんなさいと思いながらも列を抜かしたりダッシュして、結局最終搭乗案内のところでなんとかギリギリ乗り継ぎ成功。
アジスアベバから韓国に飛び、韓国で一旦下ろされたけど、一人一人体温チェックを受け、その後機体はそのまま(トランジット)で日本に到着。当時入国した3月29日時点で、(1)健康チェック用紙とどこで隔離予定かを用紙に記入(2)口頭で「どこに今日泊まるの?どうやって帰るの?」と聞かれるのと、(3)サーモグラフィー検査だけの成田空港のザル検疫を通り、日本に無事帰国。
検疫官に「予約してたホテルが、帰国者だと言ったらキャンセルになった。他にも受け入れてくれるホテルがない」と相談したら、「ホテルのリストあげますね。アパホテルが空いてるそうです。提出書類にはアパホテルって書いておきますね」と、まだ予約も何も入れてないのに(本当に空いてるかも確認してないのに)決まってしまった。
後から聞いて知った話ですが、このリストは適当に空港周辺のホテルを羅列してあるだけで、全部が全部帰国者を受け入れてくれるホテルではなかったそうです。試しに上から順に電話をかけてみると、少なくともアパホテルまでのホテルが当時帰国者の受け入れをしてなかったそうです。
当時「空港に、隔離場所まで輸送などの支援を行う自衛隊が派遣された」とニュースになっていましたが、私が到着した時、自衛隊はいませんでした。多分ニュースだけ先に出して、実際にはまだ派遣されてなかったんだろうなと思います。
ホテルまでのシャトルバスの最終便は22時5分でした。それを逃すと、公共交通機関が使えないので、ホテルまで10kmの道のりを徒歩で歩かなければなりませんが、残念ながら私は逃してしまいました。
当時、ホテルは大体1泊7000円〜1万円なので、要請通り「帰着日の翌日から起算して14日間」をホテルで隔離しようとすると、少なくとも10万円します。レンタカーも鳥取で乗り捨てできるやつは2日で10万〜20万くらいしたのを覚えています。
学生には無理。絶望しました。
そんなわけで、行き場を失った私は空港でどうしていいかわからず呆然としていましたが、他にもそんな人はたくさんいました。
私は、お互い「はじめまして」帰国難民者の人たちと話して、一緒に行動することにしました。みんな九州とか遠方が出身。そのうちの一人が中国・四国地方の人(仮称Aさん)で、「検疫官に、今日は空港で泊まって、翌朝国内線で地元まで帰ります、と言ったけど、検疫官は仕方ないならしょうがないから自己責任でどうぞ、と言われた」という人がいたので、私たちはみんな一晩成田空港のロビーで野宿して、翌朝国内線で帰ることになりました。
私とAさんは眠れなかったので、一晩中話して過ごしましたが、厚生省が発表している情報を上から下まで丸暗記する勢いで何度も読み、その中であることに気づきました。
「検疫強化対象地域以外の地域を出発し、検疫強化対象地域を経由して日本に来た飛行に搭乗した」場合、「日本での検疫時に搭乗した航空機に有症状者がいないなど、一定の要件が満たされる場合には対象とならない場合があります」と書いてあること。
私の出発地は当時感染者ゼロ人のボツワナ、Aさんもエチオピア出発。当時アフリカ全土の国は日本の検疫強化対象地域ではありませんでした。さらに、エチオピアと韓国で2度の検疫(個別の体温チェック等)を通って来たので、明らかに同じ飛行機内に有症状の人はいない。はず。
ちなみに当時検疫官に「私たちも対象になるんですか」と質問したら、「なる」と答えた人と「ならない」と答えた人が半々で、毎日状況が変わる中で、おそらく検疫官側も経由者に関する判断が統一されてなかったのではと思います。
というわけで、この旨を大学やらいろんな場所に相談した上で、最終的には大学から許可が出たので、羽田までリムジンバス(乗客は私のみ)で移動し、そこから国内線、そのあとは車で自宅まで帰ることができました。
当時帰国者に対する風当たりがかなり強かったので、Twitterの炎上を恐れて書かなかったですが、実はそんな経緯があって戻ってこれたんです・・・。私は「まだコロナが出てない国」から戻って来たので良かったんですけど、もしこれが欧州からの帰国者だったら?アメリカからの帰国者だったら?と考えると、絶対に無理です。断言してもいい。
なのに当時帰国者は無条件にメディアや世間からは叩かれてたような時期だったので、本当にやるせない気持ちになりました。当時、自分の意思とは無関係に帰国せざるを得なかった人たちに対して、人々は「帰ってくるな」「帰国難民は自業自得」と言い、国は隔離場所を用意してくれなくて、ホテルは宿泊拒否、大学も無視。誰も助けてくれない、と思った。
ーーーーここから箸休めーーーー
いきなり箸休めにどうでもいい話をしますけど、日本人、トランジットとトランスファーを間違って使ってる人多過ぎです。トランジットは「機体を変えないけど給油等の関係で一旦寄港すること」なので、飛行機自体からは降りないこともあるし、場合によりますが座席も変わらなかったりします。トランスファーは「飛行機を変えること」で、多くの日本人が「トランジット!」と言っているのは実はトランスファーである場合が多いです。世界一周しました!みたいな、旅慣れてる人ですら、トランスファーのことをトランジットと呼んでいて、時々驚かされます。空港によっては「トランスファー」と「トランジット」で進む場所が違ったりするので注意しましょう。
ーーーー箸休め終わりーーーーー
なんだかんだ色々ありましたけど、私は無事に自宅に辿り着きました。
14日の隔離の間も、先輩が玄関先まで食材を買って来てくれたりだとか、ポケットWi-Fiを貸してくれたりだとかして、すごくすごく周りの人に支えられて過ごしました。隔離中毎日検温しましたが36.2度を上回ることは一度もなく、無事に今日で隔離が終了になりました。
帰国の判断から14日間、冷静になって色々なことを考えたんですけど、あのあとボツワナが正式に事実上のナショナルロックダウンになったり、いつ解除になるのか、いつ落ち着くのか全然目処が立ってないのを見ていると、なんだかんだ「帰ってきて良かったんだな」と「納得」しています。就職活動や修論研究への影響を考えると、多分、帰国は正しい判断だったんだなと思ってます(とはいえ大学側はもっと早く判断して欲しかったけど)。
当時は「ボツワナはコロナ感染者0人で、日本はもう2000人近くいるのに、むしろ帰る意味ってなに?帰る方が危険なんじゃないの?」と思ってました。
実はエチオピア航空のオフィスで最終の飛行機を取るとき、「残り3席しかない」「オフィスはあと5分で閉館する」と言われて、一瞬「大学には、飛行機取れませんでしたって説明して、このままボツワナに残ろうかな」と血迷ったんですよね。実際そうしても良かったなと思ってます。
でもやっぱりいつ終息するのか目処も立ってない中でボツワナに残ると、今後の自分の進路等への影響がどれくらいあるかわからなくて怖かったのと、もし私が嘘ついて居残ると自分の指導教官が大学から責められたりするのでは?それは嫌だなぁと思い、思い切って航空券を買いました。(片道18万7000円で往復19万7000円だったので、往復のを買った)
だから「嘘ついてボツワナに居残った方がよかったわ」などと、後悔はしてません。
ようやく隔離が終わり、明日から大学に行けるようになります。これからのことはまだわからないですが、修士論文が新しいテーマになっても、真摯に取り組んでいきたいなと思ってます。就職活動も頑張らなきゃだし・・・
で、さっさといろんな「マスト」を終わらせて、さっさとボツワナ戻りたいです。ていうか、留学は終わっちゃったので短期旅行での渡航になっちゃうけど、絶対に戻ります。そしたらボツワナでの日常ツイートも復活するので、その時まで待っててください。
心配してくださった方々、支えてくださった方々、見守ってくださった方々、本当にありがとうございました。
4月13日 フカウチユリコ