枕仕事の起源と地下鉄に関する一考察(後編)
戦前、わたしが子供だったころ、枕づくりはもっぱら枕屋さんの仕事だった。全身タイツを着た枕屋さんは桶に入った枕を天秤棒でかついで高速で移動しており、速すぎて声もかけられないほどで、村の翁を50年つとめているG・メッセルさん以外、だれも枕を買うものはいなかった。G・メッセルさんは昭和12年から平成5年ごろにかけて日本各地に点在していた概念的な(固定的な実体をもたない)初老の男性で、手にはえんじ色のシルクハットをかぶり、足には泥がこびりついた軍手をはめ、頭には紺色の立派な袴をかぶり、目・鼻・口のところにだけ穴をあけていた。
わたしが住んでいた牛込区(当時、現・新宿区)では、飴屋やティッシュ屋、フライドガーリック屋なども、桶にいれた商品をもって高速で移動していたが、LOOPで移動するマリトッツォ屋だけはかれらのスピードに勝てていなかった。当時「ちゃんこ」と呼ばれていたLOOPはヒノキやナマズの骨でできており、ハンドルには油が塗ってあり持ちにくく、スピードも60km/mほどしか出ず、ガリガリと口うるさい音をたて、道路のアスファルトを大いに傷つけながら走っていたので、巷では俗に「電子辞書」といわれていたほどだった。
そのころ、キム・ヨジョン氏が株式会社オクトパスエレクトロニクスの代表取締役社長に即位したとの知らせを受けて、牛込では区をあげて祝賀大会が開かれていた。前任のペ・ヨンジュン氏は事業内容を大学ノートづくりからルーズリーフづくりに転換しようとしたことで世界各国から非難され、経営手腕も特にすぐれておらず、会社存続の危機、ひいては人類生存の危機とまで言われていたが、キム氏がふたたび大学ノートづくりに舵を切ったことで、景気は回復し、無事に地球の自転を停止させることができた。
しかし、キム氏の就任は良いことばかりではなかった。彼女は枕屋さんを規制したのだ。具体的にいうと、枕屋さんは高速で移動することを禁止されたのである。彼女は、枕屋さんが一般人が追いつける程度の速度で移動することで、G・メッセルさん以外の人物が枕を購入できるようになる、という短絡的な考えのもと、規制を決定した。しかし、枕屋さんにとっては、高速で移動することで、だれにも枕を買われないということがなによりも大切なこと。キム氏はそのマクラ・スピリッツを知りえなかったのだ。枕の売り上げが増加した枕屋さんは、もはやこれまで、と次々に地下鉄(当時は銀座線しかなかった)のホームから線路に飛び込み、自ら命を絶っていった。
大学ノートの生産量が1.1倍に増えた影には、このような負の歴史があったのだ。枕屋さんにとって、枕とはなんだったのか。そして、枕を製造販売する、枕仕事とはなんだったのか。その答えはもはや、G・メッセルさんにしか知りえないのだ。彼らが計画していたという「コード2055による全人類バッチリ計画」の謎が解き明かされることを願って、2024年の執筆活動を終えたいと思う。