大地の芸術祭 「アケヤマ ティム・インゴルド講演会」
既存の人類学をひっくり返した人類学者であるティム・インゴルド氏に越後妻有大地の芸術祭及び秋山郷とアケヤマへ来ていただき、講演会をしていただいた。
ぼくとしましては大変みのりのある時間をいただきました。
インゴルドさん、イベントに関わってくださった皆様、そして通訳で伴走してくださった伊藤さん大変ありがとうございました。
●インゴルドさんと秋山郷を巡る
1日目は金沢からの移動と、芸術祭の作品を巡っていただいた。
2日目から僕も同行し、アートフロントの河田さん、今回通訳をお願いした伊藤雄馬さんと共に津南町歴史民俗資料館、見倉、山源木工でランチ、アケヤマ見学、講演会という流れで巡っていただいた。津南町歴史民俗資料館についたタイミングで看板のhistorical folk museum とあるべきところ、historical fork museum となっているスペルミスを見つけて笑って写真を撮っていた(笑)
津南町歴史民俗資料館自体は、こういう「ものが雑多に並んでいるだけの資料館」が一番好きなのだとおっしゃっていた。
アケヤマへ行く道中で見倉にも立ち寄っていただいた。見倉は4軒だけの集落だが、昔から秋山で最も秋山らしく美しい集落と呼ばれているところだ。山水をそのままひかれた集落の最高の水も飲んでいただいた。
集落の一番おくの家に住んでいる山田正道さんにも会っていただいた。正道さんは、周辺住民からは誤解も多い人物だが、我々が知る中で最も山に寄り添って生きている秋山の人間だ。1年のうちのほとんどの日数山へ登りに向かう。10月はきのこのシーズンで、今ではもう誰も登らなくなった金城山の頂上まで朝早くから登り、エノキ、マイタケをはじめ様々なきのこをとりに出かける。ちょうどインゴルドさんに会った時は、山登りの際に必ず木の枝を切って杖を作る話をしてくれた。登りの時は短めの杖を作り、下りる時は長めの杖を作る。
●インゴルドさんの講演会について
講演会は、頂上を目指す登山とロープウェイをする登山と狩猟・採集のための登山の話から始まって人間:自然という概念の再定義はいかに可能かという議論へと続き、過去と未来の捉え方、教育のあり方へと繋がっていった。
人間が自然を超越して近代文明を築いていったが、未来へと進歩していく一方向的な見方は、資源枯渇の問題を背景に植民地主義や環境破壊などの課題や浮き彫りになり不可能になってきた。
では進歩を止めて停滞することを目指せばいいのかというとそうではなく、過去と未来を両方を同じように見つめて自己や世界を作っていくことが重要なのではないだろうか。その一例として過去(後ろ)ではなく、前にいる祖先という例を出してくれた。ありとあらゆる過去は未来にもあるという時間と世界の捉え方は芸術を実践する際に起きていることでもある。そして自然を征服するような思考は顔と顔をむき合わせるようなface to faceな関係で、そうではなく大事なのく寄り添って対象と同じ方向を向くことが重要である。カルチャーを自然をコントロールして作るものとみなさず「守る」とか「手入れをする」とかその語源に戻って、対象を大切にすること。それは教育も一緒でface to faceで一方的に教えるのではなく、同じ方向を向くことが本来の学びであるとそれはのアケヤマでも起こっていると感じる。
と色々端折ってざっくりとまとめさせてもらうとこんな話をしてくれたと受け取った。
●質問や感想
インゴルドさんが話をしてくれたことは、英語でちょっと難しかったかもしれないが、越後妻有や津南、秋山郷で山と共にある暮らしの中にいる人、芸術を実践している人からするともうすでに少なからず実践していたり、すんなり理解できる人が多かったのではないだろうか。
質問もとても興味深いものが多かった
・秋山郷の朝鮮人労働者の個人的な慰霊碑としての庭石を「前にいる祖先」と結びつけて考えてくださったもの。これもfacetoface対話や対立を超えて寄り添う関係を作るための別の植民地主義の乗り越え方と言えるかもしれないと思った。
・インゴルドさんの主張はアケヤマの実践とどう繋がっているか
僕としては津南町や秋山郷のこれまでの蓄積自体が繋がっていると感じている。津南を代表する民俗学者滝沢秀一氏は、戦後民主主義の実践として大きく二つの活動を行った。女性たちの教育・発言の場所として「勉強するお母さんのひろば」の発行と、近代化の背景のもと差別の目に晒され続けた、秋山郷などの山の暮らしと技術に光を当て続けるための民俗学だ。このような活動は、住民や研究者など様々な人たちが現在も受け継いでいる。
また同時に多くの山の暮らしの技術が失われ続けていく中で、どのようにそれを保存・継承していくかとその困難さに直面すると、ともすると苦しくなる。見倉の山田正道さんもおそらく日本唯一のウサギのワダラ猟を続けている人で、彼がいなくなったらその文化も消えるかもしれない。だが正道さんのようにただただ楽しみながら山と関わり続ける態度を見ると、自分のそのようにあるように心がけることが一番重要なことなのではないかと気づく。インゴルドさんは、過去と現在と未来が同時にあるように世界を捉える方法を芸術といった。芸術が様々な対象と寄り添って大切にする方法であり、それは大事に保管することではなく対象と色々な可能性を試しながら遊ぶことから始まるとおもう。山と遊ぶことで自身が生成されていく。それは日々の都市的な暮らしから受ける外圧から精神を解放する一つの方法にもなるかもしれない。そうした実践の場をアケヤマは目指したい。