Everything is between the sun and 23.4° tilt of the Earth's axis.
すべてのことは、太陽と地軸の23.4°の傾きの間にある。
そう気付いたのは高校3年生、大学受験のために手にした地理の教科書の最初の数ページを読んだ時だった。
「地理」という、私に世界の理を説明してくれた壮大な教科の始まりは、世界の気候区分のお話だった。
世界にはたくさんの特徴ある気候があって、そのグラデーションを、学問の例に漏れず地理でも「分割」して「命名」することによって説明していた。
寒帯、冷帯、温帯、乾燥帯、熱帯、各気候帯の中にもいくつか種類があって、気候に応じて地面には多様な植生が広がっている。植生が違えば採れる作物も違い、人間の食文化や住文化も異なるし、生まれる宗教や価値観も異なる。そうやって「世界」の多様性が出来上がっていた。
同じ地球上で気候に差が生まれるのは、地軸が傾いているからである。季節によって太陽に近づいたり遠のいたりする地域、いつもずっと近い地域、遠い地域、そして風が生まれ海流が生まれ、そうやって地球が営んでいるお陰で、気候が生まれ、植生が生まれ、人間の文化が生まれる。
すべてのことは、太陽と地軸の23.4°の傾きの間にある。
このたった一点に、その途方もなく複雑な世界が集約される。
この驚愕、この快感、この全能感。
なーんだ、全部地軸の傾きのせいだ。
あの時から私は、世界を掌握したような気持ちでいる。地理という教科を学べば学ぶほど、その感は強くなった。何にも知らない世界のことが、複雑すぎて捉えることのできない世界が、物理的にソートされていく。そればかりか、人間の文化、思考、そういった可変的で流動的で抽象的なものまでも、必然的で理論的な産物に捉えられる。
その一方で、世界はグラデーションであることを知る。
学問とは、分割して命名を繰り返すことで何かを分析し理解し構築する営みであるけれど、地理でも同じような作業をしていく中に、不思議とグラデーションを教えられる。「分割」と「命名」は完全を求める人間の策略だと知る。
気候や、植生や、サイエンス的なものだけじゃない、説明できちゃうなんて思いもしない、説明されたくない、捉えどころがないから多様で面白いものだと思っていた人間の営みまでも、地理の論理では説明できてしまうのだ。地理を得た人は、世界を得たと同じだと思った。世の中を見渡す視点が、教科書のページをめくるごとに、ポーン、ポーン、と上がっていくようだった。すごく小さなものも鮮明に見える、度の強い眼鏡をかけたようだった。行ったことも見たこともない世界のどこかの人々が、すぐそばで体温を持って笑っているように感じた。世界の仕組みを知った私は、世界に対して愛を感じた。共感が芽生えた。不信感が消えた。
浪人して、予備校に通っていたころ。その、冬。
くたくたに心を費やした夜の帰り道、見上げて、黒い木の葉に透かして見える区役所の高層ビルの明かりだとか、それら距離の異なる二つの景色が歩くにつれてスライドしていく様だとか、窓が四角く明るい電車が二階の駅に入っていく光景だとか、なんだかワンダーランドにいるみたいにチカチカして温かくてそれでいて素朴な景色を見たと思った途端、今にも地べたにうつ伏せにへばりついてそのまま地中に埋もれていって仕舞いたいという強い衝動が沸き上がったのだ。そこから伸びて延びて、分子化した私という成分で地球の表面を多い尽くしたい。世界と一つになって仕舞いたい。そうやって、世界を抱き締めて世界を知って世界を味わいたい。それは前にも何度か強く思ったことだった。
世界に還りたい。小さな一つの孤独な個として地上に二本足で立つことがしんどくなった時の、そういう衝動だったかもしれないと、何年も経った今では思う。
全知全能欲。それは完全への道。これを抱いたのは、自分が不完全なせい?それでいて、完全性のポテンシャルがあると思うせい。あるいは、既に完全だと思うせい。
私は、不完全中毒。完璧になれない完璧主義。自己矛盾。完璧に近づいた!と思った途端に否定する自分。すなわち不完全中毒。不完全は心地好い。まだやれる余地がある、それでいて不完全に気が付いている分だけ完全に限りなく近い(その全能感)。その実不完全でありながら、完全知り顔の。
だけどこれだけは確信している。
Everything is between the sun and 23.4° tilt of the Earth's axis.
すべてのことは、太陽と地軸の23.4°の傾きの間に。このことを思う時、私は世界を愛せるような気がする。