ある1冊の同人誌、あるいは私という神秘についてーー『白望山のふもとで・完』
1冊の同人誌、と書いたけれど、そのたった1冊の同人誌は、いま簡単に手にすることができない。もちろん中古ショップやオークションを探せば買うことはできる。
◇1冊の同人誌は2010年代の作品
『白望山のふもとで・完』は、いまから8年前の2012年12月から2013年8月に、かんむりとかげのつんさんが「咲-Saki-」の小瀬川白望と臼沢塞を取り上げて描いた百合作品である。12年の冬コミ(C83)で前編を、その後の13年の夏コミ(C84)で完全版としてとして世に送り出された。
つんさんご本人は「塞さんが始終モノローグしつつシロに好きだよって言う話です。シロとの出会いとかシロの家族とか、原作に出てないことをモリモリ捏造してますので、苦手な方はご注意下さい」とか「シロと塞の馴れ初めからインハイ後までを妄想したお話です」「捏造設定多々・コミックス11巻までのネタバレがありますので、苦手な方はご注意下さい」とブログで注意を促している。つんさんの実に謙虚な面だと思う。
◇ストーリー、白望山の怪 マヨヒガ奇譚
ストーリーは「シロと塞の馴れ初めからインハイ後までを妄想したお話」である。言い換えれば、本編では決して“描かれないこと”を想像して補完しているということだ。
この“描かれないこと”は、シロ塞の恋愛、つまり女性同士の恋愛である。
シロの名前の由来は彼女の父によると「白望山の怪 マヨヒガ奇譚」に由来するという。
作品冒頭の奇譚を以下に引用する。
一、破屋にはあらねど人の姿絶えて見えず
一、什器家畜何にても持ち出したればのち幸福訪へり
一、欲深き者辿り着くこと能はず
シロの父親は「会った人が皆幸せになれるような娘に育ってほしい」から白望(シロ)と名付けたという。
その白望山(白見山)は岩手県にある。
◇「この恋も雪が溶ける頃逝くだろう」
2人はお互いのことを愛している。それはまずまちがいないーーけれど、それは完成しない。
人として清く正しくあれねばならないというあの教え“欲深き者辿り着くこと能はず”が、塞の口を塞いでいる。
シロはそんなものはないという。それでも塞はマヨヒガの奇譚があたってしまったらと思うと躊躇ってしまう。塞は自分の欲望が怖いのだ。それゆえ卒業したら時々会おうとだけ告げたのだと思う。
愛する人はイメージの中にしか存在しない、とある思想家がいった。
塞は、シロが、王子様ではないこともよく知っている。それは、打つ仕草が動作が綺麗で、ダルそうに見えてさりげなく人のことばかり気にかける尊さで、隣で見ていたのでよく知っている。
自分にない大事なものとは何か。そのことを考えた時、塞は逆によくわからなくなってしまった。短いスカートや、しっかりしているようでいてしっかりしていないこと、そして手を差し出されても拒んでしまうこと。シロにとってこの「私」とは何なのか。その謎に本人も気が付かないうちに触れてしまったのではないのか。この「私」という最も近いところにある神秘に戸惑ってしまったのではないだろうか。
「この恋も雪が溶ける頃逝くだろう でも私そしたらシロに会いたい」
一旦全ては保留になる。
この私という謎が、雪が溶けるころに、塞は自分の魅力に気がつくだろうか。2人の恋がまた生まれるのだろうか。それともまた何も起こらない日々を繰り返すだろうか。
最後に蛇足になるがこの同人誌は傑作である。