熊の出てくる日
正三は、今日が熊の出てくる日であることをすっかり忘れて、山へ寄らずに、自宅に帰ってきてしまった。なんだかやけに動物の多い日だなあとは思っていたのである。
道路ののそこら中をコドモを連れたアヒルのお母さんが練り歩いている。紐につながれていない犬もたくさん走り回っているというのに、ぜんぜん動じる気配がない。それというのも、犬どもがまた、満面に笑みを浮かべ尻尾ふりまくりの状態で走り回っているからだった。ウグイスの鳴き声もかしましい。
——という光景が目に入っていたにもかかわらず、まったくの上の空で一直線に家に帰ってきたのは、よほど腹が減っていたせいでもあるだろうか。
台所に飛んでいくと、巨大な熊がおにぎりを握っていたので、正三は腰を抜かしてしまった。
「お政さん……」
正三が驚いたのは、おにぎりのせいではない。熊が、先日亡くなったこの家の女中、お政に生き写しといっていいほど似ていたからだ。
「おや、これは正三坊ちゃん」
とお政熊は、なれない発語でぽつぽつと話した。
「いやですねえ、こんな日にまっすぐ帰ってくるなんて」
人は死ぬと動物になる——ほんとだったんだ。そして、動物たちは月に一度、山から里へおりてくる。人はそっと居場所を変えて、いまは亡き人々に故郷を堪能させてやる。それが熊の出てくる日、だった。
「右衛門殿ー」
お政が吠えるように叫ぶと、
「もーできたのかー。わしは塩むすびがええのー」
と言いながら、右衛門じいちゃんが仏壇の間から出てきた。
「おー、正三っ」
正三はあったかい体に抱きしめられて失神した。
「だから、動物のお肉はよおく感謝して食べなくちゃいけない」
と、母のお絹はいう。
正三が失神から目覚めると、猪鍋のいい匂いがあたりに立ちこめていた。
「これでまた、誰かが人に戻ってくるんだから」と。
(了)
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