クズ女はクズ男を愛し抜けないー映画『愛がなんだ』をみて
クズ男に惹かれる女は、得てして自身もクズ女であることが多いと、よく言われる。
だが、これは少し話が違う。
およそ一ヶ月前、映画『愛がなんだ』を観た。もう一ヶ月も前なのに、二日に一回は『愛がなんだ』のことを考えてしまう。
この映画は、ある男のことが大好きで、キスもするしセックスもするし、休日にはデートだってするし、熱が出たら看病だってしにいくのに、なぜだろうか、この男は恋人ではない……。という地獄の沙汰のような状況を、ただひたすらに真っ直ぐ生きる女が主人公の話だ。
この主人公の女性、名前をテルちゃんという。テルちゃんが惚れ込んでいる男がマモちゃん。
テルちゃんはマモちゃんが好きなのだが、マモちゃんはテルちゃんのことを好きではない。
テルちゃんはマモちゃんが好きだから何だってするのだが、マモちゃんは好きではないのにテルちゃんを呼び、触り、抱きしめる。
世の中には、好きではないが自分にとって都合の良い女に対し、何の罪悪感も持たずに「好意を見て見ぬふりをして」もしくはご都合主義で「相手も自分と同じ感情だと思い込んで」平気でその女を抱く男がいる。私はこういう男を俗にいうクズ男だと考えている。
そして、おおよそこういう男の餌食になってしまう女は、身体を重ねる度に感情の高まりを抑えきれなくなるも、やがて被害感情が生まれていく場合が多いと予想している。そして、自分が悲しい状況にあることを理解しながらも「それでも好き」と身と心を削り、ボロボロになりながら何度も夜を重ねるのだろう。
時間が経つにつれ、その夜に何の意味もないと気づき、ただ純粋な愛が欲しい、幸せになりたいと嘆き出すと女はその男から離れて行く場合が多いように思う。
クズ女はクズ男を愛し抜く才能がないのですぐに離れていき、まあクズなので、また同じようなことを同じようなクズと繰り返し生きている。
ただ、テルちゃんは違う。テルちゃんはクズ女ではない。
愛を求めない。愛とか、ない。ただ好きなのだ。だから、マモちゃんに相手にされなくても、マモちゃんが他の女のことを好きでも、被害感情が生まれない。私はなぜ大事にされないのだろう? とか、私は好きだからこんなことをしているのに、どうして向こうは好きじゃないのにこんなことできるんだろう? などは思わない。
自分はマモちゃんが好き。ただそれだけなのだ。
劇中にもあったが、このような場合に陥ると、周囲からは「あんな男やめときなよ」と100%の確率で言われる。
周囲から賛同の得られない自身の幸せというものは、本当の意味での幸福感を得づらい。
「●●ちゃんはやめとけっていってたし、第一●●ちゃんの言う通りあいつは自分を大切にしていないし、そんな人とは未来は望めないし、私だって結婚したいし子供も産みたいし、ああ、あいつといると幸せになれないんだ」
という思考回路になる。
ただ、またテルちゃんは違う。
おかまいなし。ただ好きなのである。
テルちゃんの究極の愛の形、それは「マモちゃんになりたい」。
結婚したいとか、子供がほしいとか、幸せになりたいとかじゃなく、マモちゃんになりたい。それが叶わなければお母さんとか兄妹とかでも良いと言っていた。
そもそも、よく言う「幸せになりたい」の「幸せ」とは何なのだろう。
男女が互いを思い合ったり、好きだと言い合ったり、将来を約束し合ったり、子どもを持ったり、といったところか。
けれど知らない間に、このなかに「周囲から『幸せだね』と認められること」も含まれているのではないかと思う。
自身の幸せに加え、他人からも幸せ認定されること。これまでを含めて「幸せになりたい」と言うのではないか。
これからもし恋をすることがあるとすれば、私はテルちゃんになりたい。
いや、正確にいうとテルちゃんの愛する才能がほしい。誰の幸せの価値観にも染まらない、誰かが作り上げた愛の枠にはまらない、テルちゃんのようになりたい。自由に愛したい。その好きが叶わなくとも、叶っても、だ。
でも私がテルちゃんばりの愛の才能を得てしても、マモちゃんに恋はしない、というかしたくない。
テルちゃんは愛するという面において底なしの才能を発揮していたのに、その分だけ、相手を見定める才能が欠落している。
私もテルちゃんの友達だったら声を大にして言う。「あんな男、やめときなよ」。
けれどもきっと、どんな声もテルちゃんには、届かない。
テルちゃんはきっと今日も、でっかい缶の金麦を飲み、自分のことを好きでない男の連絡を待ち続けているだろう。