映画『花束みたいな恋をした』を観て
少しだけ「好きかもしれない」と思っていた男の子の部屋で、彼がお風呂に入っている間にAwesome City Clubの「勿忘」を聴いてみた。ほとんど曲は聴けなくて、ぼんやりとただシャワーの水が浴室に響く音を聞いていた。
もちろん『花束みたいな恋をした』を観たからこの歌を聴いてみたわけであって、歌手名も曲名も未だに読み方に自信がない。聴いたと言うより、流したという表現のほうが正しいかもしれない。
「花束みたいな恋って何だよ」、改めてそんな陳腐なことを思ったりもするくらい、頭が回っていなかった。半ばなげやりな諦めとほんの少しの期待に浸って、冷静に考えるのがもう面倒になっていた。
エアコンがなくても寒くはないけど、なんだか心許なくて、部屋の中で上着を羽織って椅子の上で体操座りをしていた、そんな夜だった。
『花束みたいな恋をした』を観たのはもう1ヶ月以上も前なのに、どうにもトラウマになってしまって最近でも二日に一回はこの映画のことを考える。丁度『愛がなんだ』を観たときと同じような引きずり具合だ。
絹ちゃんと麦くんみたいに趣味の合う同士で4年も付き合って、みたいな恋愛の経験はないけれど、絹ちゃんの性格や世代も相まって苦しいくらいにこの映画にのめり込んでしまった。
天竺鼠の単独を一人で行っちゃうし、どうでもいいことを変な理屈でこねくり回して勝手にがんじがらめになったり、趣味の合う人間にとてつもない運命を感じたり、自分が傷つかないための包囲網として相手を受け止めきれていないのに受け止めるふりをしてしまうところとか。多分観ていた同世代の女の半数は「アレ…?私の映画…?」となったにちがいなく、まさしく私もその半数の一人なのだった。
だから、まんまと麦くんに運命を感じたし恋をして、同じように失恋をした。
絹ちゃんとのずっと前からの予定を反故にしているくせに張り切って「行けます!」って上司に言っちゃったり、本屋では今まで一緒に読んでいた小説じゃなくて『人生の勝算』を立ち読んじゃってたり、久々に映画を観に行った夜に「これからも行きたいところあったら言ってね」とかふざけたことほざいてきたり。投げやりなプロポーズをされた時も、「思ってたのと違うなあ」と私も思って悔しくて泣いたし、別れ話の時に「やっぱり結婚しよ?」と提案してきたあとに「恋愛感情がなくても」とか馬鹿なことを大真面目に抜かしてきたり。
好きだった「麦くん」がどんどん、二人から遠かったはずの“社会”に溶けて消えていく様子が辛くて、でも抗いようがなくて、全てが仕方がないことで、やるせなくて大泣きした。今でもあの頃の麦くんが好きで、もう一度会いたいのにもう決して会えないのが悲しくて悲しくて、しかも一番辛いのが「もう“麦くん”はいない」ことを本人の麦くんが分かっていないことだ。きっと一生分からないんだろう。
人生観や結婚観の違いが、「趣味が同じ」という貴重なように見えて凡庸な価値観の合致に霞んでしまっていたことも、この恋が花束で終えてしまった原因だろう。恋のゴールが幸せな結婚とは限らないけれど、恋をしていると「現状維持で、ずっと一緒にいる」ことを、麦くんと同じように目標にしてしまうと思う。やっぱり恋をしている限り、幸せに結婚したいと思うものだ。
沢山の恋をしてきたけれど、花束ほどに綺麗だったかは分からない。安ガーベラ一本くらいの価値しかなかった恋もたくさんある。でもどんなに安くても、どんな手段で手に入れた花でも、綺麗な瞬間は必ずある。けれど切り花は根を張ることができないので、時間が経つとお決まりのように枯れていく。
私がこれまでに手にした花たちは何色だっただろうか。忘れかけていた、もう二度と手に取って見ることも触れることもできない記憶の淵にある花に鮮やかな色をつけて、花瓶に挿したあの頃の気持ちと一緒に思い出し抱きしめたくなった。
「勿忘」を流して冷静に考えるのを諦めた次の日の朝、やっぱり「花束みたいな恋って何だよ」と考えたりした。そろそろ花束みたいな恋じゃなく、根を張るタイプの恋をしたいなんて思っていたが、せめて花束みたいな恋にしたかったかもなと、枯れ始めている花を心に抱えて、素顔で電車に揺られながら、そんなことを思った。