<短編小説>戒めの銀時計

一。

―――俺は、嘘をついた。

 教室の隅。一番後ろの窓際の席で、机に肘を置き頬杖をつく。グラウンドでは、一年の連中がサッカーを行っている。一時限目から体育とか、悲惨だな。と、憐みの色を瞳に浮かべ、鼻で笑った。
 おもむろに、ズボンのポケットに手を突っ込み、引き抜いた。手には、銀時計が握られている。懐中時計と呼ばれる事が一般的のようだが、俺は銀時計と呼んでいる。理由は、ただ単にスマートだからだ。腕時計はつけずに、この銀時計を所持している。渋くてカッコイイからと、友人には言っているのだが、本当の理由は別のところにある。
 銀時計の蓋を下方へと開き、盤面を覗き込む。時計の針が九時五十分を差したと同時に、授業終了のチャイムが響いた。今日も寸分の狂いもなく、時を刻んでいる。
「お前、本当に好きだな? その時計」
 突然、隣から声を掛けられ、慌てて振り返った。中学からの親友であるユウジが、俺の手を顎でしゃくりながら、白い歯を見せた。
「それだけ大切にされたら、祖父さんも喜んでんじゃね?」
「どうだろうな?」
 俺は素っ気なく返し、銀時計をポケットへ戻した。
この銀時計は、五年前に死んだ祖父が大切にしていた物だ。宝物だとも言っていた。俺は暇さえあれば、時計を眺め、磨いている。部品に不具合が起これば、原因と対処法を調べ、自分で修理していた。幼い頃、祖父がそうしていたように。祖父も嬉しそうに愛おしそうに、この銀時計の世話をしていた記憶がある。俺は、その祖父の姿が大好きだった。そして、それほどまでに、愛情を注がれた、この銀時計が大好きだった。
 俺が、この銀時計を大切にする理由は、死んだ祖父の形見だから。と、いう理由だけではない。
 この銀時計は、大切な宝物であり、後悔の念であり、罪悪の象徴でもある。
 だから、俺は、この銀時計を肌身離さず、常に持ち歩いている。まるで、懺悔でもするかのように。
「おい! マサキ! 早くしないと、遅れるぞ!」
 既に、体操服に着替え終わっているユウジが、俺の背中を叩いた。俺は急いで制服を脱ぎ捨て、体操服に着替える。教室内には、もう誰もいなくなっており、俺とユウジは急いで教室を飛び出した。
 体育館でバスケを行ったので、体操服は汗で湿っている。首元を指でつかみ、前後に動かす。送られた風が素肌に触れ、不快感を和らげていく。自席で制服に着替え、着席した。瞬間的に察知したが、脳味噌が拒否しているようで、体が硬直した。いつも感じるズボンの圧迫感がない。手をゆっくりとズボンに這わせていく。いつもある場所に、いつもの膨らみがない。
 やはり気のせいではなかったと思うよりも先に、素早く立ち上がっていた。ズボンのポケットに突っ込んだ手をかき回す。顔面から血の気が引いていくのが、鮮明に分かった。
「マサキ? どうしたんだ?」
 俺の異変をいち早く察知したユウジが、声をかけてきた。教室中の視線が集まっていることに気が付いているが、体が硬直して動かない。まるでオイルをさしていない古い機械のような緩慢な動きで、俺はゆっくりとユウジの顔を見た。
「銀時計がなくなっているんだ」

二。

 我ながら、今にも泣きだしそうな弱々しい声が漏れた。実際、目の奥が押さえつけられたように痛かった。
「お、おい。大丈夫かよ? 顔色悪過ぎるぞ。唇が真っ青じゃないか」
 ユウジは心底心配しているようで、俺の肩に優しく触れ、席へと誘導してくれた。力なく椅子に身を預けると、大袈裟にきしむ音が響いた。周囲の雑音が、遠のいていく感覚に陥っていた。遠くの方からチャイムが鳴っており、次の授業の教師が教室に入ってきた。ユウジと教師が会話しているようで、突然俺は上へと引っ張られた。
「俺がこいつを保健室に連れて行きます」
 耳元でユウジの声が聞こえた。
 だが、俺の脳裏には、悲しそうな表情を見せる祖父の顔が浮かんでいた。奥歯を噛み締める。油断すると、涙が零れてしまいそうだ。俺は、その祖父の顔を実際に見たことがある。
 祖父が病院のベッドで横たわり、息を引き取る瞬間に見せた顔だ。
―――マサキ・・・じいちゃんの―――
 俺は髪の毛に絡まった蜘蛛の巣を振り払うように、激しく頭を振った。
 祖父の大切な銀時計。どうして、銀時計を大切にしていたのか、祖父が亡くなった後に祖母に尋ねたことがある。すると、祖母は、嬉しそうに、目を細めた。
「あの懐中時計はね。おばあちゃんが、あげたものなんだよ」
 俺は祖母の顔から眼を逸らした。祖父と祖母が結婚した時に、祖父は結婚指輪を祖母に渡した。そのお返しとして、祖母は銀時計を渡したそうだ。結納返しと言うらしい。その銀時計を祖父は、大切に大切にしていた。その銀時計がなくなった。
 俺は保健室のベッドの上で、仰向けになっている。茫然と天井を眺めていた。目を閉じて深呼吸をするが、瞼の裏側に祖父の顔が張り付いている。居ても立ってもいられなくなって、俺はベッドから飛び起き、保健室を出た。静まり返る廊下を全力で走ると、背後から足音がついてくるように響いている。職員室の扉を乱暴に開くと、数人の教師が注目した。俺は、それぞれの大人の顔に視線を向けていくと、幸いにも担任教師が目を丸くしていた。俺は足早に担任教師の元へと駆け寄り、深々と頭を下げた。
「先生、お願いがあります」

三。

『皆さん、お食事中に失礼します』
 高鳴る鼓動を抑えることができないでいた。額からは、冷や汗が流れてくる。俺は放送室のマイクの前で座り、口元を押えて小さく咳をした。背後には、担任教師が腕組みをしている。
『少しだけで良いので、俺の話を聞いて下さい』
 職員室で必死になって懇願し、担任教師が一緒に、学年主任・教頭・校長と説明し許可を取り付けてくれた。
『俺の大切にしていた銀時計が、無くなってしまいました。それは、亡くなった祖父が大切にしていた時計です。どうか、心辺りがある人は、返して下さい』
 俺は、少しマイクから離れ、俯いた。そして、小さく息を吐く。
『俺は犯人探しがしたい訳ではありません。大切な銀時計を返してくれさえすれば、それで十分なんです』
 心臓が警鐘を鳴らすかのように、大暴れしている。制服の左胸を掴んで、目を閉じた。
『俺は、嘘をつきました。祖父や親友そして、多くの友人に。俺が大切にしている銀時計は、俺の物じゃありません。俺が祖父から、盗んだんです。大切な銀時計がなくなって、悲しんでいる祖父を見ながら、嘘をつき続けました。そして、正直に打ち明ける前に、祖父は亡くなってしまいました』
―――マサキ・・・じいちゃんの懐中時計を知らないか?
 祖父の最後の言葉が頭の中を駆け回る。祖父の悲しそうな顔が、刻印のように張り付いている。
 祖父のあの悲しそうな顔は、銀時計がなくなったからでは、ないのかもしれない。
 祖父は大切な銀時計を、俺が盗んだことを知っていたのかもしれない。
 そして、最後に、告白するチャンスを与えてくれたのかもしれない。
『お願いします。心当たりがある人は、返してください。直接、返すのが気まずかったら、俺の机に入れておくなり、先生に預けるなりどんな方法でも構わないので、お願いします』
 俺はマイクに向かって頭を下げた。重力に負けるように、涙が零れそうになった。
『どうか、お願いします』
 声が震えて、しっかり伝わったのか、分からなかった。

四。

「じゃあ、先に帰るわ。ほどほどには」
「ああ、ありがと」
 俺は教室の席に座り、ユウジの背中に声を飛ばす。
「ユウジ!」
「ん?」
 ユウジは立ち止まり、首を捻った。
「ごめんな」
「もう、良いって! まあ、じいちゃんの墓参りに行って、ちゃんと謝ってこいよ。一人で行くのが怖かったら、一緒について行ってやるよ」
 ユウジは、後ろ手を振って、教室を出て行った。俺は笑みを浮かべ、ユウジの背中を見送った。
 日がだいぶ傾いてきた。教室に差し込む西日が、あまりにも強烈で、自然と目が細くなった。廊下から侵食してくる闇が、扉を飲み込み、教室の半分くらいまで迫ってきていた。俺は溜息をついた。
「さすがに、もう来ないか」
 正直、銀時計が返ってくる保障なんかない。少なくとも、俺にはその勇気がなかった。あれは、子供だったからではない。今の俺でも返せるかどうか・・・。
 俺が席から立ち上がろうとした時に、扉の前にある人影に気が付いた。驚いて心臓が止まるかと思った。影を凝視していると、ゆっくりこちらへ歩み寄ってくる。俺は息を飲んで、影を見つめている。すると、教室の半分くらいのところで、ヌッと知らない顔が現れた。
 小柄な男だ。誰だか分からない。その男は、体の前で両手で、銀時計を持っていた。俺は、思わず声を上げそうになったが、男の手が異常に震えていることに気が付き、声を押し殺した。俺の目の前にまでやってきた小柄な男は、銀時計を差し出した。そして、頭が膝に付くほどに、深々と頭を下げて謝罪した。同級生のようだが、顔も名前も知らなかった。数週間前に俺に告白してきた女子に、ずっと片思いをしているそうだ。そして、その女子を振った俺への意趣返しで、銀時計を盗んでしまったようだ。彼は、何度も何度も謝罪の言葉を繰り返す。
 彼の姿を見ていると、自然と目頭が熱くなってきた。俺は、差し出された銀時計を包み込むように、彼の手を両手で握った。
「お前、本当に凄いよ。ありがとう」
 その後、彼は教室を後にした。俺は彼の小さな背中を茫然と眺めていた。彼は、俺にはできなかったことをやってのけた。とても勇敢な男だと思った。俺が彼を責められる訳がない。
 俺は視線を手元に落とし、返ってきた銀時計を見る。
「お帰り」
 銀時計を優しく撫でた。傷一つついておらず、丁重に扱われていたのだと思うと、嬉しくなった。
 今度の休日に、祖父の墓参りに行くことにした。祖父と祖母に謝罪する為に。
<完>



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