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醤油中毒者の弁

 大学生の頃、小説家の先生のゼミに入っていた。ゼミの内容は世間話が五割、先生の愚痴が四割、残りの一割が小説の話だった。その一割も小説を書いていく上での精神論が大半で、小説を書く際の技術的な話はほんのわずかだった。
 もちろん、小説作法は本来自由なものである。何をどう書こうが、あるいは書くまいが、何ら強制はできない。
 音読しろ、主語を削れ、接続詞も削れ、オノマトペと記号に頼るな、「ような」「ように」と書くな、句読点は気にするな、自慢話は書くな、目を覚ましたところから書き始めるな、推敲には時間をかけろ――先生のそんな一連の教えに、食事の描写はやめろというものがあった。
 この教えは、セックスと排泄の描写もやめろ、に続く。要するに生理的な描写をするときには気をつけろという意味だ。筆が立つか、よほど特殊なものでもない限り、陳腐な描写で原稿用紙を埋めることになるからである。
 自慢話にしたところできっとそれも珍しいものであれば面白いはずだ。しかし、たいていの自慢や成功譚は一様に同じ作りをしている。自慢だけするのはさすがに気が引けると見えて、大体の人が苦労話を先に置く。だが、苦労もそこそこに、そこから成功するパターンもまた画一的なのだ。
 これは確かに小説とは対極のものに思える。騎士はお姫様を救い、平和に暮らしましたとさ、めでたしめでたしで終わらないところから近代小説の歩みは始まったと言ってもいいからだ。
 目を覚ます描写で始まる小説ならフランツ・カフカの「変身」があるじゃないかと思うかもしれないが、あの水準に達しなければやはり平凡な描写で紙を埋めることになるだけだろう。そうなればきっと早々に人は読むのをやめてしまう。いや、カフカのおかげで「ある朝、目が覚めたら」はもはや禁じ手になった。
 繰り返すが、本来的に小説は自由なものである。どう書いてもどう論じてもどう読んでもその人の勝手だし、書かないのも論じないのも読まないのも自由なはずだ。書いたり論じたりしたところでその文章を人目に晒すかどうかも自由である。こうやって作法について云々すること自体も自由だし、禁じ手をあえて行うことによって打破できるものもあるのかもしれない。
 しかし、中村勘三郎の型破りと形無しの話ではないが、最初は作法に従うのもいいのだろう。先生の話は貴重だったと今でも思う。

 吉行淳之介という人がいる。プレイボーイで、今はなき文壇の重鎮で、評価は分かれるが好きな作家の一人だ。
 批判のやり玉に挙がる女性の描き方について僕には知識も経験も不足している。その是非を云々することもできない。ただ、文章における描写がうまいことはわかる。吉行の書く文章を読むと、人の意識の流れとはこういうものだという気がしてくる。
 吉行は短篇の名手だった。その中でも「食卓の光景」という作品に出てくる食事の描写がいい。
 主人公の「私」が「S」と一緒に「T」の妻の入院する病院を訪れ、帰り道に飯屋に寄るという筋書きで、「S」は安岡章太郎、「T」は島尾敏雄がモデルである。

 Tと別れてバスに乗ったとき、鬱屈うっくつした気持の底にへんに昂ぶっている神経があるのに気付いた。気持が昂ぶるときには、ひどく空腹を感じる癖がある。Sを誘って、駅前の小さな中華ソバ屋に入った。こういうときの空腹に似合うのは、飯粒があぶらで光り醤油しょうゆ味の強い安ものの焼飯である。こまかく刻んだ焼豚の縁の赤い色がなつかしい。上品な懐石料理などでは、ぜったいに駄目である。

吉行淳之介「食卓の光景」一九六五年

「焼飯」の美味しそうな描写といえば、真っ先に考えるのがパラパラだろう。中華料理屋なら尚のことである。非力なガスコンロでは絶対に再現できない「焼飯」がまず頭に浮かぶ。しかし、吉行は逆の発想で「焼飯」を描いた。パラパラではなく油でベチャベチャしている、安物の肉が入った、何の趣向もない、醤油で味付けされた「焼飯」を小説の中に置いたのである。

 和食、中華、洋食。どれが好みかと訊かれればすべて好きだし、ひねくれた答え方をすれば別にどれも好きではないということになる。欠かさず食べるものもなく、朝は白飯がないと耐えられないとかパンじゃないと身体が重いなんてこともない。
 ただし、醤油だけは別だ。
 国内にいる限り、こんなことには気が付かなかった。海外に行って初めて禁断症状を起こした。
 二、三日ならどうにかなる。タイ料理は美味しいし、ベトナム料理も旨い。

名店「Pho Thin」のフォー(ベトナム・ハノイ)

 カンボジアの露天で串焼きを食べたら現地の人に「レストランで食え。腹を壊すぞ」と脅されたが、旅行に屋台は絶対欠かせないし、あるいは異国の中にいて、また別の国の料理を食べることも好きである。中華は言わずもがな、アラブ人街でカレーを食べたりもしたし、ラオスの韓国料理屋で食べたビビンバはお店の人の懇切丁寧な対応も合わさって本当に美味しかった。

屋台の串焼き(カンボジア・プノンペン)

 しかし、である。三日を過ぎると禁断症状がやってくる。誇張でなく変な汗が出て、血の気が引くような感覚が身体の中に芽生える。何となく頭が重く、熱っぽい。
 風邪でも引いたか疲れが出たのだと最初は思っていた。当たり前だが、使う言葉も異なれば、通貨も気温も寝るときの枕もトイレの勝手も、何もかも違うのだ。疲れて当たり前である。
 こういうときは食べ慣れたものを食べた方がいい。幸い日本料理屋はどこにでもある。スマホで近くの日本料理屋を探し、醤油ラーメンをかき込む。カツ丼があるなら醤油をかけて食べる。すると店を出る前から身体が復調する。
 こんなことを何度か繰り返し、悟った。おそらく自分は醤油中毒者だ。醤油なしでは生きていけないし、すぐに弱ってしまう身体なのだ、と。

 ホーチミン市でも何度も日本料理を食べた。特にレタントン通りには日本人街があり、注文の仕方も味もまったく日本と同じで、その気軽さからつい足が向いてしまう。腹はその感覚を忘れていないらしく、利便性もあって、そのうちに日本人街の横丁のアパートメントに宿を取るようにまでなった。
 こうなると三食すべてが日本食になる。レパートリーも豊富だ。ラーメン、寿司、トンカツ、刺身定食、タコ焼き、焼き鳥、牛丼。コンビニにはカップヌードルもおにぎりもあった。日本にいるときより日本食を食べていると言っても過言ではなくなる。

年々値上がりするタコ焼き。二〇一九年当時で七万ベトナムドン(ベトナム・ホーチミン市)

 何も僕はここで日本食の素晴らしさを喧伝しようというわけではない。食べ慣れているものをつい食べてしまう習性について書いているだけだ。
 それが証拠にこんな体験をした。ホーチミン市で偶然知り合った現地の人と食事に行ったときのことである。
 さすがの大都市で店はいくらでもあった。食事の相手は女性だったし、豪奢なホテルで洒落たディナーは難しいにしても気の利いたレストラン、それもベトナム料理を振る舞う店に行くべきだったと思う。何せベトナムにいるのだから。
 それに日本人街には日本式の居酒屋もあった。居酒屋ならメニューも豊富だし、食べられないものがあったとしても何とかなるだろう。
 しかしどういうわけか、僕は女性と二人で行くには忍びないラーメン屋に入った。もちろん意思疎通が難しかったこともあるが、今思えばこちらの脳が完全に醤油に支配されていた。
 二人でラーメンを注文して食べ始めた。僕はあっという間に食事を終え、サッポロの瓶ビールを飲んでいた。が、彼女はいつまで経っても食べ終わらない。というより、様子を見ると最初の一口か二口で食べるのをやめたようだった。
「お腹いっぱい?」
 ボディーランゲージを交えながら日本語でそう訊いた。彼女は首を横に振り、眉間にしわを寄せながら申し訳なさそうに小声で答えた。
からい……」
 ――からい? からい? カライ?
 僕は動揺した。目の前にあるラーメンは別にからくはない。ただの醤油とんこつの、脂っこいラーメンだ。
 何と答えていいかわからずに黙ると、彼女は舌を出し、片手で仰ぐしぐさをした。
 ピンと来た。おそらく彼女は「からい」ではなく塩っからい、しょっぱいという味覚を伝えたいのだ。

日本人街の横丁(ベトナム・ホーチミン市)

 それは特別塩っからいラーメンではなかった。しかし、大豆から作られた醤油の味はきっと独特なものなのだろう。ベトナムにもニョクマム、要するに魚醤はあり、あれの方が塩っからいと思うのだが、普段口にしない調味料に人は驚くほど敏感なのだ。反対に彼女は魚醤に対してからいとは思わないことだろう。僕はその日ラーメンを二杯食べることになった。
 のちにホーチミン市に行ったとき、再度彼女と日本料理を食べる機会があった。彼女はうな重を食べていた。しょっぱくないか訊ねたが、彼女は何のことかわからないらしく、首を傾げながらむしゃむしゃとうな重を平らげた。あっという間の早さだった。
 うなぎのタレには確かに甘みも含まれている。味覚の機微があるのだろう。

 海外旅行ができなくなり、いくつもの反省が出てくる中に醤油中毒をなくしたいという思いがある。ホーチミン市に行く機会はきっとまたあるが、そのときは日本人街の横丁には泊まらないつもりだ。できるだけローカルな場所に宿を取ろうと思っている。
 何も現地の料理だけを食べて通ぶるつもりはない。そんな価値観は犬に喰わせろだ。けれど日本料理に、醤油に甘えたくない。
 もっとも、体調を崩したら真っ先に目に浮かぶのは……。

(了)

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