逆さの旗(三・完)
昼頃にはプノンペン市街に戻った。暑さのせいもあって頭がぼんやりしていた。とにかくどこかに腰を落ち着けたくて僕はスマートフォンで適当に調べたラーメン屋に向かった。
指差し注文で出てきたのは日本式ではないラーメンだった。店の名前もずばり「中國拉麺」、チャイニーズヌードルレストランだ。何の気なしに訪れたわりには当たりを引いたようで料理はシンプルかつ美味しく、華僑の主人の対応も気持ちのいいものだった。何より安価に食事できるのは助かる。暑さの中、熱い麺料理を頬張るのも中々オツなものだった。
次に向かったのはトゥール・スレン虐殺博物館、かつては収容所だった場所だ。クメール・ルージュは約二万人を政治犯としてここに収容し、生還できたのはわずか六名だった。またしても入り口で音声ガイドの機械を渡され、館内に足を踏み入れる。
元がリセ(フランスの後期中等教育機関)、日本で言う高校だったこともあってぱっと見は何の変哲もない建物だ。地面には墓石が並んでいるが、おどろおどろしい雰囲気はまったくない。どちらかと言えばほのぼのとさえしている。
しかし、元は校舎だった建物の内部に入り、そのうちの一室を覗くと空気が変わった。
外は炎天下である。三〇度は優に超えているだろう。現に首の後ろには汗が伝っている。Tシャツの腹の部分も濡れていた。にもかかわらず悪寒と言えばいいのか、あるものを目にした瞬間に妙な涼しさが顔をかすめた。
それは鉄製のベッドだった。教室だったであろう一室に錆まみれになった鉄のベッドが一つ置かれていた。足かせと囚人がトイレとして使っていた弾薬箱が上に乗っている。
昔から霊感はない。そもそも霊的なものへの感性がない。名だたる心霊スポットに行って僕が写真を撮っても何も写りはしないだろう。そうなる自信すらある。だが、そんな人間でもトゥール・スレン虐殺博物館の建物の内部には妙な違和感と仄暗さを感じざるを得なかった。
見えないものが見えたり、聞こえないはずのものが聞こえたりしたのではない。外との寒暖差で一段と涼しく感じるのだということも頭では理解している。しかし、どこからか隙間風でも吹いてくるのか、ふっとした涼しさ、それでいて生ぬるい感触が時折鼻先をかすめるのだ。
特にそれが顕著なのは上階の一室、レンガで区画を区切った監獄だった。起きて半畳寝て一畳という言葉があるが、レンガで周囲を取り囲まれた独房はまさにそう表現するほかない狭さだった。人が寝られるだけのスペースはかろうじてあるものの周りをレンガで囲んであるせいで昼間にもかかわらず暗い。何も臭わないはずなのに饐えた臭いが漂ってくる気がする。
僕はデジタルカメラの電源を入れようと首から下げたカメラに手を触れた。が、途中で思い直した。
写真は旅の思い出になる。帰国して人に説明するときに便利な一枚になるかもしれない。話を聞かせるより写真を一枚見せることの方が心に訴えかけ、人を揺さぶることもある。カメラマンを志したことはないが、写真の魔力については十分理解しているつもりだ。
しかし、この監獄を撮る気にはなれなかった。撮らなかったという選択が重要だと言いたいのではない。撮るか撮らないかの二択、そんな立派な選択肢はそもそも似合わないだろう。あえて僕が撮る必要はないと思ったまでである。
重苦しい気持ちのまま建物を出ると外は晴れやかな昼下がりだった。ベンチに座って休んでいるとかつてここが収容所だったとはとてと思えなくなってくる。
野良猫のいる墓石の横では白人のカップルが抱き合っていた。女は泣いていて男は茫然自失の表情を浮かべている。展示物にショックを受け、いても立ってもいられずにそうしているらしい。
もちろん、気持ちはわからないでもなかった。隣にいる人間のぬくもりを信じたくなるのもわかる。神にも仏にも祈りたくなるだろう。しかし、咄嗟に僕はこうも思った。
――あなたが抱き合っているまさにその人が、ある日あなたにナイフを突き立て、精一杯の邪気を込めて陵辱の果てに殺人を犯す。それが行われたのがここなのではないか?
ひねくれた考えだとは思わなかった。いや、彼らもそう思い、身震いするような恐怖を覚えたに違いない。そのことを直感的に理解してしまったからこそ彼らは自分たちの中にある、ささやかな愛を確認するために抱擁し合わずにはいられなかったのだ……。
あまりの暑さに嫌気が差し、再び建物の中に入った。人のいない一角に行き、展示品を横目に見ながら涼む。
先に進むと三枚の旗が目に入った。共産主義のシンボルである鎌と槌、ポル・ポト時代のカンボジアの国旗、国章であることは何となく理解できた。しかし、どうにも様子がおかしい。
旗は逆さまに飾られていた。思わず目線が上に向く。止めてある画鋲か何かが取れ、旗が裏向きになっているのだと勘違いしたのだ。しかし、旗はひっくり返ってなどいなかった。上に画鋲を止めるスペースもない。つまりこれらの旗は展示者が意図的に逆さまに飾っていることになる。説明書きらしきクメール文字の下にはこう書いてあった。
“Long live the correct and extremely clear-sighted communist party of Kampuchea!”――「正しく、極めて英明なカンプチア共産党万歳!」
僕は戸惑った。というより拒否反応を起こした。この旗をなぜここに飾らなければならないのかがわからなかった。展示物は他にたくさんあるだろう。あえて逆さまにしてまで旗を飾った理由は何なのか。
真っ先に浮かんだのは戒めのつもりで旗を掲げているということだ。いや、きっとそうなのだろう。だが、それなら逆さまにせず堂々と飾ればいい。逆向きにする必要がない。
とすると旗を逆さまにしている理由は一つである。仮に展示物だとしても今ではそのまま飾ることのできない旗なのだ。教育目的だろうが何だろうが法律でそう決まっているのかもしれない。
しかし、だとしたら僕なら旗を飾らない。挑発と受け取られる可能性があるからだ。自国の若者たちに、あるいは外国から来た客人には別の方法で戒めを伝えようとするだろう。
ここには一種の痛みの感覚があると僕は思った。この場で起きたのが歪んだ、ひねくれた、容易にほぐすことができない特異な悲劇であったことを悟らざるを得なかった。
もしもかつての支配者を一方的に批判したいだけなら、いくらでも展示のしようはある。たとえばベトナム・ホーチミン市にある戦争証跡博物館にはホルマリン漬けの双生児や枯葉剤の影響を受けた人間のパネルなど、悲惨かつ残酷としか言いようのない展示物が多いが、底に流れているのはそういった状況に抗して大国を叩き出したという強烈な自我と誇りだ。
そこにあるのは「正義」であり、自己批判は一切存在しない。北側の兵士が南側に捕虜として捕まるとどのような扱いを受けるか、その詳細な展示はあってもアメリカ兵が北側の収容所にいたときにどんな目に遭ったかの説明はないのである。アメリカが行った蛮行の展示はあっても、一つの国(北ベトナム)がもう一つの国(南ベトナム)を崩壊させたということへの省察は圧倒的に足りないのだ。
無論これは当然のことである。彼らは国を「統一」し、南部を「解放」して「独立と自由」(ホー・チ・ミン)を勝ち取ったのだ。ホーチミンの戦争証跡博物館は一方に勝者、勝った国と軍隊が存在するという身もふたもない事実を見る者の心に強く訴えかけてくる。
その点、トゥール・スレンはやはりあの「わかりにくさ」とどこかで通底するものを抱えざるを得ないのかもしれない。加害者も被害者も同じ国の人間だからである。自国民が自国民を苦しめ、凌辱し、虐殺した途方もない現実。しかし、誰かを「あいつら」と名指しし、「過去」という永久の中に閉じ込めることもできない。そうしてしまえば、かつて自分たちを苦しめ、地獄の底に叩き落とした人間といずれは同じ道を歩んでしまう。
逆さの旗はその苦渋の果てに生まれた一つの表現だったのではないか、と今は思う。まぎれもなくこの旗はかつて自分たちの国の国旗だった。どれだけの痛みが伴ってもまずはそれを認めること。そういった「過去」を切り捨てるのではなく、確かにその「過去」があるのだと強く自覚すること。そして、人間はいつまた同じような旗を堂々と掲げ、世の中を地獄に変えるかもわからないのだということ。それを見知らぬ誰かや「あいつら」を指して言うのではなく、何よりも自分自身がまず引き受ける必要があるのだということ……。
*
一九七九年一月、ベトナム軍の侵攻によってカンボジアの首都プノンペンは再度「解放」され、ヘン・サムリン政権によるカンプチア人民共和国が樹立した。ベトナムの息のかかった政権とはいえ、このとき国旗の真ん中に描かれたのもまたアンコール・ワットである。
ベトナム軍はポル・ポト派をタイ国境付近にまで追い詰めたが、ポル・ポト派はゲリラ化。最終的にシェムリアップ北西部のアンロンベンに落ち延び、シアヌーク支持派と穏健協和派のソン・サン派と手を組んで民主カンプチア連合立政府(CGDK)を樹立する。
しかし、この三派の足並みは揃わず、一九九一年十月のカンボジア和平協定および一九九三年九月のカンボジア王国の成立、つまり事実上の内戦終結まではそれから十年以上を要することになる。
このあたりの事情がカンボジア国民の対ベトナム感情に今も作用し続けていることは言うまでもない。近藤紘一も述べているようにそもそも十六世紀までメコン・デルタ一帯はカンボジアの領土であり、サイゴンもカンボジアの土地だった。「要するに民族感情のうえでいえば、カンボジア人にとってベトナムは、何世紀にもわたる強大な侵略者」(『戦火と混迷の日々』)なのである。
内戦が終わってもカンボジアの苦境は続いた。たとえば地雷の問題だ。ポル・ポト派が埋めた「完璧な兵士」たちは戦争が終わっても国民を苦しめ続けた。被害に遭う人は一時期より格段に減ったが、現在もすべての地雷が撤去されたわけではない。今も一年に約五〇人近くが地雷の被害に遭っているのが現状である(ピースボート地雷廃絶キャンペーンP-MAC「カンボジアの地雷問題(2023年版)」二〇二三年六月一二日、https://p-mac.net/andmine-cambodia_230612/)。
一九九八年四月、ポル・ポトが死去(一説には毒殺されたという話もある)。その後、ポル・ポト派の最後の支配地域がようやく平定された。ゴーストタウンと化したプノンペンがベトナム軍によって再「解放」されてからすでに二〇年弱の月日が流れていた。
*
確かにそれまでに行ったバンコクや香港、ホーチミンと比べればプノンペンの治安は悪かったかもしれない。
たとえばこんなことがあった。ホテルの前にあるソファでタバコを吸っていたときのことだ。中東系の男が突然声をかけてきた。同じホテルに泊まっているのかと思い、僕は笑いながら彼に応じた。男は隣のソファに座り、握手を求めた。
「どうだい、調子は」
「いいよ」
「どこから来た?」
「日本」
「何歳だ?」
「二九。来年三〇」
決まりきった問いにタバコを吹かしながら答えていると男が言った。
「彼女をここに連れてきてもいいか?」
なぜと僕は問い返しそうになったが、すんでのところで黙った。最後の質問が明らかにおかしかったからだ。こちらのことなど気にせずにスマートフォンでも何でも使って彼女を連れてくればいいだけだろう。
気づけば、周りに座っている人間もうさん臭げに彼を眺めていた。僕は黙ったまま疑問の表情を浮かべた。
「彼女を、ここに、連れてきて、いいか?」
男ははっきりと言い直した。柔らかな笑みの奥にある眼の光がたちまち怪しいものに思えてくる。
僕は言葉がわからないふりをし
「ソーリー、アイキャントスピークイングリッシュ」
と言って首を振った。
男は表情を変え、すぐに立ち上がった。さっきまでの笑いがまるで嘘のようだった。男と一瞬目が合った。すべてを見透かしたような冷たい眼をしていた。人を殺せる眼だと思った。思わず身構えたが、男はさっさとその場を去っていった。
今振り返ってもあのときの咄嗟の判断、というより幸運には感謝しなければならない。おそらく睡眠強盗かトランプカード詐欺の類だろう。
けれど、プノンペンには穏やかな光景もたくさんあった。王宮の周りや街の中心部にあるワット・プノンはいつも市民であふれかえっていた。トンレサップ川周辺も市民の憩いの場だ。釣りをしている人もいればエクササイズに励む人もお互いに身を寄せ合いながら語らうカップルもいる。
この両極端の感想もあながち的外れとは言えないだろう。民俗学者の梅棹忠夫はプノンペンの街の印象についてこう書き記している。
驚くべきは梅棹がプノンペンに学術調査に行ったのが一九五七年から一九五八年にかけてということだ。引用文中の「新生」は一九九三年ではなくフランスから独立した一九五三年時点を指している。彼が見たのはクメール・ルージュによってゴーストタウン化される前のプノンペンなのだ。人口も今や二〇〇万人である。
にもかかわらず梅棹は街の本質を突いている。プノンペンはどこか「ゆったり」していて「悠長」なのだ。いや、それこそがクメール・ルージュの究極の暴力によっても奪うことのできなかった土着のもの、街本来の姿である。永久とも言える「過去」をプノンペンは受け継いでいるのだ。
食事をし、飲みに行き、ホテルに帰って寝るのを繰り返すうちに僕は徐々に街に慣れていった。ビールは安かった。ドラフトビールはどこで飲んでも必ず一ドルでレディードリンクの相場は五ドルだった。
僕はプノンペンという街を楽しみだしていた。トラブルにも巻き込まれず、瞬く間に日は過ぎていった。そういった意味ではあの詐欺師もプノンペンの街の深さや度合いを教えてくれる貴重な存在だったのかもしれない。
帰国も近くなったある日、僕は行きつけになったバーのママさんに逆さの旗の写真を見せた。
「博物館にありました」
「ああ、キリング・フィールド?」
「そっちも行きましたよ。これはトゥール・スレンです。S21です」
ママさんは興味があるのかないのか判断のつかない声音で相槌を打った。僕は勇気を出し、空中で人差し指と中指を回す仕草をしながら訊いた。
「なぜ逆さなんです?」
バーの時間が止まった気がした。それは好奇心に負けてタブーを訊いた自らの愚かさが途端に嫌になったからかもしれない。
ママさんは少し困ったように微笑んでみせ、
「コミュニストフラッグ……」
とだけ言った。
年齢的にもおそらくはクメール・ルージュの時代を経験した女性である。しかし、彼女は「過去」を頑なに否定するのではなく、また無知な異邦人を怒鳴り飛ばすのでもなく、慎み深い笑顔とゆるやかに流れる時間そのものでその時代を受け止めようとしているのだと僕には思えた。
冒頭で述べたような「わかりにくさ」、それを理解しようと僕はプノンペンに来た。だが、ひょっとすると問いかけ自体に誤りがあったのかもしれない。
理解しがたい物事、納得できない事実、過去。世の中はそんなことであふれ返っている。逆を言えばその「わかりにくさ」に性急に答えを出すことにわれわれは飢えている。そうでなければ納得できないような精神を抱えてしまっている。
しかし、生き急いで即座に答えを出すのではなく「わかりにくさ」をわかりにくいままに受け止め、粘り強く過ごすこと。そして、その時間自体がとても大切なのだということ。そうあらなければ暴力という厄災には決して抵抗できないのだということ。プノンペンは、そしてそこにいる人たちはそのことを身をもって体現してくれているのではないか?
もちろん、はっきり言ってしまえばこれは諦めることと紙一重である。だが、仏教用語の「諦観」=諦めるとは明らめることであり、すなわちそれは本質をはっきりと見極めることへと繋がる唯一の道なのだ。
ゆるやかな時間が流れるプノンペンの街、悠久の中飲み下していくビール、淫靡な雰囲気を発しつつもどこか心を穏やかにしてくれる都市の雰囲気。物事を咀嚼し続けることの難しさと一つの忍耐、その先にある平和への志向が自然と共存する場所……。
「わかりにくさ」をわかりにくいままに受け止め、認め、過ごすプノンペンの街、カンボジア人の姿がそこにあった。
(了)