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 インスタントコーヒーのCMで遠藤周作の名前を初めて知った。唐沢寿明も出演しているネスカフェのコマーシャルだった。キャッチコピーは「違いがわかる男」。故人の遠藤と共演しているように見せるため、合成技術を映像に用いていた。画面の中で二人は犬を撫でたり話し合ったり大量の本を運んでいたりした。
 唐沢寿明主演のドラマ版『白い巨塔』が放送された二〇〇三年、僕は中学三年生だった。『白い巨塔』にもネスカフェのコマーシャルにも強烈な印象が残っている。だからどちらも同時期に放送されたものだと思っていたが、これは記憶違いだった。
 CMでは「四〇年目のリニューアル」とナレーションが流れる。調べてみるとそのインスタントコーヒーが最初に発売されたのは一九六七年。遠藤・唐沢の両氏が映像上で共演したコマーシャルは二〇〇八年二月に放送されていた。
 となると遠藤周作の名前を初めて知ったとき、僕は浪人生活の真っ只中にいたことになる。
 CMでは遠藤周作を「コリアン先生」と呼んでいた。本をたくさん運ぶ場面があるし「先生」と呼ばれているからには文化人か物書きであることは何となくわかったが、「コリアン」ならば韓国に関係があるのかと思い、母にそう訊ねた。母は呆れたように笑いながら答えた。
「違う違う。きつねたぬきあん狐狸庵こりあん。鄙びた場所ってこと。どこに住んでたんだっけ。小説家だよ」
 へえ小説家か、と思った。当時好奇心旺盛だった僕はすぐに近所のブックオフに行き、遠藤周作の本を買った。文庫本が百円均一の「え」の段に大量に置かれていた。キリスト教がテーマの小説もあったが、ぱらぱらとページをめくってみて興味をそそられたのは『ぐうたら』シリーズに代表されるエッセイやユーモア小説だった。
 それからというもの浪人生活の間に遠藤のエッセイ群をかなり読んだ。力の抜けた文章と軽妙な話術に救われる気持ちだった。
 まさか遠藤と同じく三年も浪人するはめになるとは思っていなかったけれど……。

 二〇一七年一月、初めてタイに行った。近くのショッピングモールにあるJTBの窓口に行き、季節はずれの格安ツアーに申し込んだのは秋頃だったが、寒さが厳しくなるにつれタイを選んだのは正解だったと思った。
 頭の中に浮かぶ候補地はいくつもあった。昔ニューヨークに憧れていたこともあるし、ポーランドのアウシュビッツ収容所にも興味を持っていた。ただいささか物価が高いし、何より寒いところに行きたくなかった。
 暑い場所でビールでものんびり飲みたいと思っていた。日々の生活に倦んでどこか投げやりな気持ちもあった。
 別にビールならいつでも飲めるのだが、暑いとなると来年まで待たなければ夏はやってこない。それに「のんびり」も大事である。本当の「のんびり」を味わいたいのなら身の回りのもの一切から隔絶されなければならない。となると言葉も通貨もそれまでの常識も通じない場所は「のんびり」するのに最適と思えた。
 スワンナプーム空港から車で移動し、バンコク滞在中の拠点であるツインタワーズホテルには早朝六時過ぎに着いた。八時までロビーで待っていれば男のガイドが迎えに来るとのことだった。荷物を預ければ外出もできたが、僕はそれを断り、ソファーで休むことにした。
 ロビーはひどく豪勢だった。天井からはシャンデリアが吊るされ、レセプションも広い。立地がいいとは言えないが、ボーイのうちの何人かは日本語も解すようだ。
 僕はロビー脇にあるソファーに座って荷物の整理を始めた。早朝でこの暑さなのだからなるべく薄着にした方がいいと思った。それにリュックもいらないはずだ。ショルダーバッグだけ残し、必要なものはその中に入れればいい。パスポートは首にかけた巾着袋の中に大切にしまってある。
 人気のないロビーでおもむろにスーツケースを開け、シャツを取り替えた。すると緊張が少し緩んだのだろうか、ふとのどの渇きを覚えた。我慢することもできたが、日本を発つ前に両替しておいたタイバーツをくずしておいた方がいいと思い、僕はスーツケースを引きずり、ホテルのすぐそばにあるセブンイレブンに行った。

泊まっていたホテル(タイ・バンコク)

 コンビニの内装は日本とまるで同じだが、安心したのもつかの間だった。コカコーラやオレンジジュース、お茶と思しきペットボトルが並ぶ冷蔵庫の隣の棚にどういうわけか白い幕がかけられていた。
 書かれた英文を読むと深夜から朝にかけて、さらに昼間の時間帯は酒の販売を禁止しているらしい。英語とタイ語のみならず中国語と日本語でも小さな文字でそう表記されている。ビールでのどを潤そうと思っていたが、それは叶いそうもない。
 日本は酔っぱらいに寛容な国だと言うが、海外だとこんなものだろうか? いや、さっきホテルを出て行くとき、どこかで朝まで飲んできた若者たちが泥酔した女性をロビーに引きずっていくのを見た。国王が亡くなって間もないから店舗が酒の販売を自粛しているのかもしれない。
 いずれにしろまだビールが飲めそうにないのを悟った僕は仕方なく水を買うことにした。どれがミネラルウォーターなのかもよくわからないが、いろはすに似ているペットボトルを選び、レジに進むと
「セブンバーツ」
 と言われた。
 ――セブンバーツ?
 頭の中で計算した。一バーツは約三円。三に七をかける。七バーツは二一円だ。いろはすが二一円?
 訝しげな表情をした店員に釣り銭を渡され、汚れた二〇バーツ紙幣を四枚、硬貨を数枚握りしめながらホテルのロビーに戻り、ソファーに深々と腰を下ろした。ペットボトルを手に持って眺めてみると葉っぱのマークは間違いなくいろはすのそれだ。
 こんなことで衝撃を受ける自分もよほどの世間知らずに違いない。が、あまりにも安い。この国では五〇〇ミリリットルのミネラルウォーターが二一円で買えるのだ……。
 その水をちびちび飲んでいるときっかり八時にスラテープと名乗る中年のガイドが現れた。サングラスをかけていたが、はずすと柔和な眼をしていた。若い頃は相当モテたに違いない。日本語は流暢だが若干早口だ。
 ツアー客は自分を含めて三人だった。僕以外の二人は夫婦のようでもありカップルのようでもあった。女性は寡黙なのに対し、男性はおしゃべりの好きな、関西弁の心地いい人だった。
 再びミニバンに乗り、王宮のそばまで行くとスラテープさんは
「ここで降りましょう」
 と言った。
 王宮が近くにあるのを除いてはキヨスクのような売店や薬局が立ち並ぶ何ということもない街角だった。気がつくとスラテープさんは薬局の人と話し出しており、他の二人のツアー客はカメラをしきりに構えている。
 僕は歩道と車道を交互に見比べ、朝の街を立ち働く、あるいはこれから車でどこかへ向かう異国の人たちの顔を眺めた。商品の補充に来たのだろう、歩道のわきにはダンボールの積まれたリヤカーが置かれ、バイクタクシーの男は一人の買い物客を待っている。誰がこちらを気にするでもなく、当たり前の淡々とした生活が目の前に広がっていた。

王宮の近く(タイ・バンコク)

 しばらくするとビニール袋をぶら下げたスラテープさんが
「行きましょう」
 と僕たちに告げた。おそらくちょっとした買い物に付き合わされただけだったのだが、異国の地に来た実感が突如湧いてきて僕は嬉しくなった。
 少し歩いて王宮に近づくと周囲は喪服を着た人たちばかりになった。話には聞いていたが、バンコクの特に王宮(ワット・プラケオ)周辺はプミポン国王、ラーマ九世の崩御の影響を大きく受けていた。
 とにかく黒一色だ。喪服ではないのは僕たち観光客と警備中の軍人くらいだった。いたるところに国王の写真やパネルが飾ってある。
 汗ばんだ身体を抱えながら観光していると国民がプミポン国王を愛していることがすぐにわかった。彼らは悲痛な表情で葬列を作っているが、国王が写っている大きなパネルの前では笑顔になり、記念撮影をする。国王の写真も若い頃から晩年のものまで様々あり、路上では黒リボンのみならずプロマイドや缶バッジまで売られていた。

王宮(タイ・バンコク)

 葬列は延々と先の方まで続いていた。救護所もちらほら見かけるし、実際そこで倒れている人もいる。ミネラルウォーターが配られていたり、いくつかの屋台も無料で食事を提供しているようだ。スラテープさんによると朝一で来てもいったん列に並んでしまえば出て行くのは夕方か夜になるという。
 パスポートのある観光客は色々な場所を通り抜けることができるがこの列には絶対に混ざらないように、そうスラテープさんは言った。

長蛇の葬列(タイ・バンコク)

 その後もぶらぶらと王宮を歩いたが、目を引いたのは壮麗な建物でも異国情緒あふれる像でもなく軍人の多さだった。
 一個小隊がいる詰め所ではひょうきん者の若い兵隊が仲間たちを笑わせていた。片手には黒光りする自動小銃を持っていながら、おそらく猥談でもしているのだろう、若者は若者らしく無防備に、階級が上の鬼軍曹も口を歪ませながらもれなく全員笑っている。
 写真を撮るならここだ。そう思ってカメラを構えた。が、詰め所の手前にはカメラのイラストにバツ印をした看板が立っていた。イラストの下にタイ語で何か書かれている。
 読むことはできなくともどういう意味かはすぐにわかった。撮りたいものほど撮ることができない。そのことを理解した僕は自分とそう歳の違わないであろう軍服の若者たちを眺め、彼らのうちの一人と目が合うと急いで視線をそらした。
 頭から爪先まで何メートルもの長さを持った寝釈迦がある涅槃寺(ワット・ポー)やチャオプラヤー川を渡って暁の寺(ワット・アルン)、エメラルド寺院、バンコクで二番目に高いビルであるバイヨークタワーにも登り、スカイレストランでバイキング式の昼食を食べるときにようやく僕はビールにありつけた。

バイヨークタワーからの眺め(タイ・バンコク)

 タイで初めて飲んだビールはシンハーという名前だった。サンスクリット語で獅子という意味である。注文するときはシンハーと言えば通じるが、ビアシンと頼んだ方が通だと後から聞いた。スカイレストランでの価格はグラスで五〇バーツ、追加で頼んだ瓶は七五バーツだった。

シンハービール(タイ・バンコク)

 次に飲んだのはチャーンという名前のビールだ。アユタヤの水上マーケットで購入した。チャーンはタイ語でゾウを意味する。タイではゾウは特別な生き物で、国旗も現在の赤白紺白赤のストライプ模様になる前は真ん中に白象が描かれていた。

チャーンビールを飲みながら休憩(タイ・アユタヤ)

 その次に飲んだビールはレオ。カオサン通りの店で飲んだ。シンハーとチャオに比べると若干安く、ラベルのトラの顔が特徴である。聞いたところによると正確にはビールではなく発泡酒らしい。

カオサン通りでレオビール(タイ・バンコク)

 想像していたよりも蒸し暑くアルコールは飲んだそばからすべて汗になって出てきた。酒の味で辛口という表現があるが、タイのビールは言ってみれば甘口で飲みやすい。
 いったい何杯のビールを飲んだのだろう。本当に汗になって全部出ていってしまうのか二日酔いになるわけでもなし、こうなると水も同然である。
 日々ビールを飲み、そうこうするうちに疑問が湧いた――アジア各国の他のビールはどんな味がするのだろう? どんな違いがあるのだろう? 味もそうだが、やはり飲む場所でそのとき考えることは変わってくるのか?
 そもそも僕は左党ではあるけれどビール派ではない。飲み会の一杯目は生ビールを頼む、あるいは暑ければビールが飲みたくなるぐらいである。どちらかと言えばウイスキーと焼酎の方が好きだ。
 しかし、ひょんな思いつきから出た行動が繋がって、ついに目的ができた気分だった。

 香港で飲んだのは日本でも有名な青島ビール。香港産ではなく、名が示す通り中華人民共和国山東省青島産のビールだ。
 香港には酒税がないので店で飲むのは別としてコンビニやスーパーで買って飲む分には非常に安上がりだった。特にブルーアイスという名前のビールは激安で五〇〇ミリリットル缶で六香港ドル(二〇一七年当時で百円)ぐらいだった。発泡酒や第三のビールではなく正真正銘のビールでこの値段だ。日本よりも物価は高いが、酒だけは異様に安い。

青島ビールとチャーハン(香港)

 安いと言えばもちろんベトナムを抜きにしては語れない。左党にとっての最後のフロンティア、水よりもビールの方が安いという眉唾な噂まで流れた国である。無論実態は水が安い。
 期待に胸をふくらませながら入国し、ホテルにチェックインしたのも早々に足を踏み入れたベンタイン市場で飲んだのはバーバーバー(333)という不思議な名前のビールだった。
 ベトナムでは三は不吉な数字なのだが、九はラッキナンバーとして扱われている。三が三つで九になるので、つまりこのビールはたいそう縁起のいい飲み物なのである。

333、ベトナム語で「バーバーバー」(ベトナム・ホーチミン市)

 他にもスペシャル、グリーン、レッドといった種類があるビア・サイゴンもポピュラーな銘柄だ。僕はまだ飲んだことがないが、ビア・ハノイという名前のビールもあるらしい。

ビア・サイゴンとベトナム料理フルコース(ベトナム・ホーチミン市)

 どの銘柄にしろ、ベトナムでは確かにビールが安かった。いや、酒自体が安かった。バックパッカーの集まるブイビエン通りで飲んだビア・サイゴンが一万八千ドン。当時はゼロを三つ削って五をかけるとおおよその日本円に換算できたから約九〇円である。ビアホイと呼ばれるスタイルのドラフトビールはもっと安いし、コンビニで買って飲めば当然のように安価だ。
 ただし注意点がある。気の利いた店に行けば行くほどグラスに氷がサービスされてしまうのだ。おそらく冷蔵庫が普及していない時代の名残りだろう。日本酒も古来は水で割って飲むものだったという説があるが、ここは抵抗しなければならない。ノンアイスと告げるとこいつは何言ってるんだという顔をされるが、薄まったビールにはまだ慣れない。
 値段のことを言えばカンボジアで飲んだビールも安かった。その名もずばりアンコールという名前のビールがもっともポピュラーな銘柄だ。バーに行ってもレストランに行っても屋台に行ってもこれが出てきた。国旗のど真ん中に堂々と描かれているようにアンコールワットはカンボジア国民の心の支えであり、国家の象徴である。

アンコールビール(カンボジア・プノンペン)

 ラオスで飲んだビアラオも忘れられない。飲む店のあてもなく暑い中をぶらぶらと歩いているうちにたどり着いた河べりのバーでこのビールを初めて飲んだ。
 メコン川に面した開放的な店で席に座るのに抵抗はなかった。一杯だけ飲んで休憩し、来た道を引き返すつもりだった。ところが日焼けした男に英語でビールを注文すると
「日本人ですか?」
 と笑いながら問いかけられた。すっかり日焼けしていた上に暑さで参っていたのもあって勘違いしたが、男は日本人でバーのオーナーだった。聞けば若い頃に東南アジア各国を旅した結果ラオスに落ち着き、首都ビエンチャンで店を開くことにしたのだという。
 ちょうど空港がリニューアル工事の最中で店には日本人駐在員も多く集まっていた。不思議なことに中には僕と地元が同じ青年もいた。
 旅行中、通常なら僕は日本人の集まる場所をあまり好まない。宿にしろバーにしろそうである。日本人同士で固まることが安全を保証してくれるわけでもない。むしろこれは逆だろう。街中にいて日本語で声をかけられても基本は無視か、適当に相づちを打って逃げるだけだ。
 言語という意味合いにおいて言葉が通じてしまうことと人間同士の心根でウマが合うことは決してイコールではない。言葉が通じず、直感がものを言う場面ではこの感覚はより鋭敏になる。
 いや、強がる必要もないだろう。端的に言えば海外にいて日本語でやりとりすると途端に日本に引き戻され、日本にいるときの現実に帰ってしまう。それが嫌だっただけだ。
 けれどラオスに行ったときはそれなりの長旅で日本語に飢えていた。だから珍しく禁じ手を破った。
 暑さの中、ビアラオを飲みながら眺めるメコン川の景色は美しく、気分もいくぶん陽気になれた。日本にもこんな場所があればいいのに、とありえないことを本気で思った。

ビアラオ(ラオス・ビエンチャン)

 ミャンマーでは名前もずばりそのままのミャンマービールを飲んだ。まったく平和そのものといった雰囲気で賑わう街中にいて必ず見かけるのがこのビールだった。
 クーデターのクの字もない頃の話である。国軍系企業の酒だと後から知った。
 もちろん製品はあくまで製品であり、ビールはビールである。飲むために作られ、人々はそれを消費する。そこに何らかの意味づけを行ってしまうのは人間の身勝手さゆえだ。というより現在の暴力的なグローバル資本主義を突きつめて考えていけばいくほど市販の製品を買う気にはなれないジレンマに僕は陥っていく。
 ミャンマービールがミャンマーの国民にとって馴染み深いビールであることも間違いがないだろう。しかし、今仮に僕がミャンマービールを日本で見かけても飲もうとは思わないのも確かである。僕もまた何らかの意味づけを行ってしまう人間の一人であり、逆を言えばそんな陳腐な感覚しか僕は持ち合わせていない。

ミャンマービール(ミャンマー・ヤンゴン)

 ビールの味がどうというより、結局のところは飲んでいるその時々の場面の違いしか目に浮かばない。言い換えればそのときの状況によって酒の味は変わる。僕にとって酒は美味いときもまずいときもあるということだ。
 これでは酒飲み失格と言わざるを得ない。まずければ飲まなければいいし、いつだって美味しく飲めてこその酒だからである。コーラが大好きな人間がいたとして、その人にとってコーラがまずい日は原理的にはないはずだ。
 飲んだ場面は思い出すくせに味を思い出せないのも酒飲み失格である。酒と向き合わずに人と、あるいは景色、要するに自分の思考と向き合ってしまっている証拠だ。どこかの誰かが言ったように風景から「内面」とやらを自分勝手に発生させるよりも前に酒にはもっと真摯であらなくてはならない。つまり、まだまだ修行が足りないのである。
 ベトナムではコーヒーもよく飲んだ。ベトナムコーヒーといえば世界的にも有名で土産物屋でも数多く見かけるし、街の喫茶店の数も確かに多いが、日本のコーヒーとの違いが僕にわかるはずもない。普段コーヒーを飲む習慣があるわけでもないし、やはり味よりも場面の方が記憶に残っている。

ベトナムコーヒー(ベトナム・ホーチミン市)

 喫茶店はサラリーマンやカップル、友達同士でだべり合う集団、僕のように一人で暇をつぶす人間であふれていた。それは日本と変わりがない。ただ、耳を澄ませるとそこはやはりベトナムなのである。言葉が違う、BGMが違う、道路を行き来する乗り物の音が違う、いや、きっと何もかもが……。
 そんな空間でぼんやりすることが嫌いではない。

(了)

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