客死と戦死
僕は腹が弱い。すぐに腹を下す。アジアを旅する身には重大な欠陥だ。水を警戒するのは当然として、ジュースに入った氷も生野菜も屋台の飯も、すべてに気を配らなければならなくなる。最大限に気をつけるとなると口にすることができるのは瓶ビールか、ファストフード店のハンバーガーぐらいだ。
それで面白いわけがない。水道水は決して飲まないが、暑さのせいでジュースの氷は気にしなくなる。いつもの癖で、シャワーを浴びるときに軽く口をゆすぎたくなる。焼き飯に生野菜が添えられていれば、やはり食べてしまう。屋台は数日もそこで過ごすと解禁になる。その土地に慣れるにしたがって、気を使うのが面倒になるのだ。
あれだけ気をつけていたのが嘘みたいだな、と座高の低いプラスチックのイスに座りながら思う。もしこれで大惨事になったらどうしようという思いも頭の隅を通り過ぎる。だが、そこに一種の解放感もないわけではない。
第一、腹を下したところでそれが水のせいなのか食事のせいなのか、ただ単に酒を飲みすぎたせいなのかもわからないのだ。気持ちをまぎらわすために正露丸を飲み、まあ何とかなるだろうと結論づけるのが常だった。実際に毎度何とかなっていたし、腹を下すのは旅の洗礼ぐらいに思っていた。
*
二〇一七年七月、ベトナム・ホーチミン市を訪れ、僕は帰国の日を迎えた。ベトナム、特にホーチミン市は憧れの都市だった。
かつてサイゴンと呼ばれた街。その名前は今はもうない。しかし、書物に出てくるサイゴンに強く惹かれていた。開高健や近藤紘一が宿泊していたマジェスティック・ホテルにも奮発して泊まり、旅の中で思わぬ出会いもあった。
マジェスティック・ホテルで飲んだ「ミス・サイゴン」が忘れられない。ノンフィクション作家の沢木耕太郎はかつて同じ場所で同じカクテルを飲み、こんな感慨にふけっている。
著名なミュージカルから名を取ったこのカクテルを僕が飲もうと思ったのも、沢木の猿真似に過ぎない。景色はまさに彼の描く通りだった。そして僕が沢木に導かれたように、彼もまた、夭折した新聞記者・近藤紘一に導かれてマジェスティック・ホテルに宿泊したことを告白している。一九七五年四月、サイゴン陥落、もう一つの言い方をするならサイゴン「解放」を取材した近藤はここからの景色をこう描写した。
さすがに今の風景とは異なる上に、時期が時期だ。この場面の九日後、同じ場所にロケット砲弾が命中し、ホテルの従業員に死者まで出ている。『サイゴンのいちばん長い日』には当時のサイゴン中心部の地図が載っているが、現在川に架けられている橋は影も形もない。そもそも通りの名前が今と違っていたりする。マジェスティック・ホテルの前の通りは現在は「ドンコイ通り」と呼ばれているが、以前は「ツゾー通り」だった。
ただ、建造物や看板は違っても、サイゴン川を眺める景色の中には何か土地に根ざしたもの、土そのもの、そこに宿る魂と言う他ないものがある。だとするなら、そこから喚起される気持ちにもまた共通のものが生まれ出てくるのは当然だろう。
沢木と近藤がこの街に惹かれたように、僕にとってもホーチミン市は一つ一つが輝くものを残してくれる魅力的な都市だった。一九七五年のベトナム戦争終結から約四〇年。街は高度経済成長真っ只中で、いたるところが工事中だ。母に現地から興奮気味に報告のメールを入れると、「昔の東京みたいだね」と返事が来た。
戦争の跡は観光地になり、ホーチミン市の中央にあるベンタイン市場からは地下鉄が開通するという。その電車は日本の会社が協力して作っているから日本人駐在員も多い。したがって夜の街も栄える。
ベトナムはとにかくビールが安かった。バックパッカー通り(ブイビエン)の屋台で飲む大瓶のビールが五〇円ぐらいだった。バーバーバー(333)とサイゴンビールが有名だ。割高で、現地の人は絶対に行かないであろう邦人向けのガールズバーに行っても、ウイスキーのボトル(ジャックダニエル)が四、五〇〇〇円。ここは旅行者は少なく、現地駐在員が来る場所のようだった。接待などで利用するのだろう。
帰国する日の前日、満足感と寂しさを覚えながら荷物を整理して床についた。帰国は夜の便にしたので、朝起きてチェックアウトしたら土産を買いに街をぶらつくつもりだった。ベトナムの国旗を買おうと思っていた。願いが叶うならば、南ベトナム解放民族戦線の旗も欲しかった。
市場に行けば見つかるだろう。写真を見せればわかってくれるはずだ。歴史的なことを加味して考えると、あるいは妙な顔をされるかもしれないが、それはそれで仕方がない。仮にそこになくとも、事情を話せばどこかから調達してきてくれるのではないか――僕はホーチミン市民のおせっかいとも言える人懐っこさや、商魂を秘めたしたたかな人柄を愛し始めていた。いつかまたここには来たい。そう思って目をつぶった。
とんでもない吐き気だった。飲みすぎて気持ち悪くなるのを凌駕した感覚だった。真っ暗な部屋の中を手探りでトイレへ向かい、僕は便器に顔を突っ込んだ。
栄養ドリンクのような色をした液体が口から出た。固形物は一切出なかった。何度かえずくと、液体も出てこなくなった。
ふらふらとベッドに戻り、再び眠りについた。外はまだ暗かった。疲れが出たのかなとこの時点では思っていた。
カーテン越しに朝日が射し込み、次に目を覚ますと全身が熱っぽく、身体の節々が痛かった。これは只事ではないな、と思った。腕時計を見たが、チェックアウトまではそう時間がない。
ロビーに行き、とりあえずチェックアウトの手続きを済ませた。いくらか払ってそのまま部屋に居続けようかとも考えたが、口を開いて話すのが億劫だった。
僕は夢見心地のまま、ホテル内をさまよった。クラシックのBGMがうっすらとかかっていた。街中に出て熱い日光に身体を晒すのを直感的に避けた。フライトまではまだ十時間はあった。
ホテル備え付けのプールのわきにランドリーがあり、人一人が寝られるほどのソファが目に入った。立ち入ってみると横にトイレもあった。誰もランドリーに入る気配はない。
そこで力尽きた。ホテルマンに怒られたらその場を去り、ロビーのソファにいればいいと思った。
再びトイレに行くと派手に腹を下した。尋常な下し方ではなかった。普段腹を下しがちな人間がそう思ったのだから間違いない。
とりあえず正露丸と解熱剤を飲んだ。歩く力もなかったが、どうにか近くのコンビニに行き、スポーツドリンクを買って飲んだ。なぜか炭酸混じりでホテルのプールサイドに戻ると吐いてしまった。いよいよ打つ手なし、と僕はソファに寝転びながら天を仰いだ。
――何がいけなかったのだろう? 疲れが出たか、ただの飲みすぎか。いや、今までこんな状態になったことは旅行中はおろか日本でもない。旅の疲れにしては異常だし、今日が帰国する日だから昨日は酒を控えめにしたはずだ。
前日の夕飯が頭をよぎった。サイゴン川クルーズの現地ツアーを予約し、日本から来たご婦人三人と船上で鍋をつついた。実は一人用の鍋が用意されていたのだが、ご婦人方が気を使って一緒に食べようと言ってきたのだ。断ることもできず、ぎくしゃくした会話をしながらサイゴン川を眺め、旅の余韻に浸った。鍋は確か海鮮系だった。
エビだな、とふと思った。見た目からして生煮えの感じはあったが、勧められるままに箸を付けたのがいけなかった。あれに当たったに違いない。
なるほど、こんなにわかりやすく症状が出るものなのかと感心した。マンガの描写のように嘔吐と下痢を繰り返した。すると、あのご婦人方も今頃同じ目に遭っているのだろうか……。
「エクスキューズミー、サー」
気が付くと、褐色の肌を持つホテルマンが心配そうにこちらを見つめていた。身を起こそうとすると、彼は手でそれを制し、大丈夫かと英語で問いかけてきた。
「アイ・ゴット・ア・フィーバー。バット・アイ・ハブ……オールレディ・チェックアウト」
熱がある。でも、もうチェックアウトは済ませてしまったんだ――うまく伝わるか不安だったが、ホテルマンは首を縦に振り「医者を呼ぶか?」と訊いてきた。
「ノー。マイ……マイフライト・イズ・トゥナイト。アイ・ウィル・ゴーバック・トゥ・ジャパン……キャン・アイ・ステイ・ヒアー? プリーズ」
俺は今日の夜帰るからそれまでここにいさせてくれ――熱っぽい頭でたどたどしくそう口にして、空港まで送迎を頼んでいたタクシーの予約表を見せた。するとホテルマンは黙ってタオルケットを持ってきてくれた。薬は飲んだかと訊くので寝転んだままうなずくと、彼は柔和な笑みを浮かべながらソファを指差した。ここにいていいよ、と言ってくれたようだった。
果たして日本に帰れるんだろうか? そう思いながら僕は眠りについた。
*
芭蕉翁いわく、古人も多く旅に死せるあり。
客死という言葉がある。旅先で、または他国で死ぬことを意味する。原因もよくわからず、医者にも行けず、誰かに助けを求めようにも言葉の壁があると自覚しなければならず、ただ耐えている状態のとき、この言葉は現実的な響きを持って聞こえてくる。
客死と聞いて思い浮かぶのは二葉亭四迷だ。一九〇八年、朝日新聞特派員として出向いた旅先で肺炎をこじらせた二葉亭四迷は帰国途中のインド洋上で亡くなり、シンガポールで火葬された。遺骨は日本に送られ、墓が東京の染井霊園にあるが、シンガポールの日本人墓地にも墓石がある。
どうしてシンガポールにも墓を作ったのかは寡聞にして知らない。ただ、客死した日本人の墓の存在を映像版の『深夜特急』を見て知ったとき、妙な胸のざわつきを覚えた。
僕が実際に見たことがあるのは、映画『戦場にかける橋』で有名なタイ・カンチャナブリーにある連合国軍の共同墓地とミャンマー・ヤンゴンにある日本人墓地だ。カンチャナブリーには泰緬鉄道の建設に携わった連合国兵士の捕虜と東南アジアの労務者の慰霊碑も存在する。
けれども、それ以上に僕の印象に残ったのは『戦場にかける橋』のクウェー川鉄橋を行った先にある中華民国の旗だった。カンチャナブリーはすっかり観光地として賑わっており、橋の上は大勢の人が行き来しているのだが、中華民国の旗が立つ場所には誰の姿もなく、わきに追いやられている感じがした。
青天白日旗を掲げているということは、八路軍ではなく国民党軍の墓か慰霊碑があるのだろうか? 僕は橋を下りて目の前まで行ってみようした。しかし、突拍子もない思いがふと頭をかすめて歩みを止めた。――彼らをここに追いやったのはいったい「誰」なのか?
もちろん、中華民国は戦勝国である連合国の一員だ。正確な数はわからないが、おそらくビルマ戦線の捕虜としてタイに連れてこられ、泰緬鉄道建設に携わり、命を落とした人もいるに違いない。そこに差別は存在しないはずだ。
しかし、ならばなぜこんな目立たない場所に墓か慰霊碑を建てたのか。ひょっとすると、ここに建てざるを得ない事情があるのか。
いや、そもそも「誰」が彼らをここに連れてきたのかを僕は考えなければならなかった。『戦場にかける橋』は観たが、あれはあくまでも一部分を映したに過ぎず、実際の捕虜や労務者はもっと過酷な環境で労働に従事させられていたことだろう。この世を呪い、自分の人生を呪い、敵国を呪い、日本人を呪って死んでいった人もいるはずだ……。
僕は橋を引き返した。興味本位でその旗の前に立つことは、あまりにも彼らに失礼な気がした。
スマートフォンで自撮りをする人、一眼レフカメラを構え幾枚も写真を撮る人、手を繋いで歩く親子、川面を見つめて談笑するカップル。僕の思いとは対称的に橋の上には笑顔があふれていた。
*
ヤンゴンの日本人墓地は街の郊外にあった。中心地から車で三〇分以上かけ、建物も何もない殺風景な田舎道でタクシーを降りるときに運転手が言った。
「どれくらいいるつもりだ? 街に引き返すならここで待ってるけど」
日本語ではなかった。英語混じりの、多分ビルマ語だ。だから何と口にしたのか正確にはわからない。身振り手振りでそう言っている感じがしたというだけである。
「アバウト・ワンアワー」
人差し指を立てて言うと、運転手は「オーケー」と頷いて車を発進させて行ってしまった。いざ一人になってみると、こんな人気のない郊外で帰りのタクシーが拾えるのかどうか不安になったが、配車アプリがあるので何とかなるだろうと気を取り直し、僕は日本人墓地の門をくぐった。
墓地は想像以上に広かった。あちこちに石碑があり、よく清掃されていて手入れが行き届いている。墓場というより公園か植物園のようだ。調べたところによるときちんと管理人がいて、維持費は寄付でまかなっているという。
空は一面青かった。高度経済成長を骨身に感じさせる街の中心地の喧騒が嘘のようにのどかな場所だった。鳥の鳴き声が聞こえ、ふと線香の香りがする。
(よくまあ、日本軍もこんな遠くまで来たもんだなあ……)
自分でも呆れるぐらいのんきな感慨が浮かんだ。本当にここがあの『ビルマの竪琴』のビルマであり、インパール作戦の地、「ジャワの極楽、ビルマの地獄」と謳われた「地獄」の地なのだろうか?
墓地を進むと大理石でできた白亜のお堂があった。お堂の前には「鎮魂」と銘打たれた石碑があり、「ビルマ平和記念碑」と説明書きがしてある。
中に立ち入ってみると一枚の白黒写真が足元にあった。写真の中には軍服姿の男が一人立っていた。僕は反射的に目をそらした。
インパール作戦やその後の敗走について詳しいことは僕にはわからない。けれども、敗走し、死んでいった兵士の中には僕と歳の変わらない、いや、もっと年下の男もいたことだろう。船か陸路か、いずれにしろ彼らは僕と違って自主的にこの地に来たわけではない。彼らはここへ、やはり「誰か」に、さらに言えばもっと大きな「何か」によって連れてこられたのだ。
その「何か」は内発的な顔をしていて、実は外圧の結果生まれたものかもしれない。いや、実は最初から人間に備わってしまっている暴力的な「何か」なのかもしれない。それは抗おうにも抗えず、流されるままになってしまう、厄介な「何か」だ。そうしてやってきた土地で彼らは無念にも戦死した。
客死にロマンチックな要素があることを僕は否定しない。だが、戦死は違うと思った。そこにはもはや勝者も敗者もない。死という現実だけが目の前に転がり、気楽に飛行機でやってきた僕が、グロテスクにもその死を覗き込んでいる……。
僕はいくばくかの金を管理者らしき女性に渡し、ノートに記帳を済ませると急いでその場を去った。寄付するには少額だったのか、女は苦笑して首を傾げていた。
ちょうど墓地の真向かいは斎場らしく、そこでタクシーが来るのを待った。人の焼ける、甘酸っぱい臭いがした。棺の前で号泣する中年の女と彼女の身体を支える人たちがいた。掲げてある写真に写っているのは若い男の顔だった。すると彼女は早くに息子を亡くした母親だろうか……。
ようやくやって来たタクシーはトヨタのボロボロのスターレットだった。それはかつて家族で旅行に行き、今は亡き祖母も乗り、いつの間にか売ってしまった車種と同じ車だった。今にも壊れそうなエンジンの爆音の中、陽気な運転手はのべつ幕なしにしゃべりまくったが、僕は愛想笑いしかできなかった。早くあの喧騒の中に連れていってくれ、と強く思った。
*
ベトナム旅行の顛末だが、僕は何とか空港まで行き着き、日本へ帰ることができた。いや、そうでなければこれを書くことも叶わなかった。羽田空港に飛行機が着陸したあのときほど日本へ帰ってきたという実感を味わったことはない。
自宅に帰ってみると腹痛はすでに治まっていて、半日も寝たら身体は回復した。母は笑って「食あたりでしょ」と言った。冷や奴に醤油をたくさんかけて食べた。さっきまでベトナムにいたはずなのに、母の顔を見ていることが不思議だった。
以後、旅行をしている最中にあの症状に見舞われたことはない。疲れが出ても一日のんびり過ごしていれば翌日にはすっかり治まっている。
(了)