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「日本文化」は江戸ではなく明治に生まれた?
だらだらとした文章が続きますがお許しください。
日本文化はどこで「日本文化」となってしまったのかを考えている中で、実は、江戸ではなく明治において完成形になったのだ、という話を書きました。
すると、それを裏付けていただけるような記事を拝見しました。
元のnoteを書いている方はよく存じ上げませんが、渡辺保さんは私でも知っている歌舞伎・演劇評論家の大家です。その人が、近代歌舞伎で最も有名な河竹黙阿弥について書いた本というのは、なかなか興味をそそります。
河竹黙阿弥といえば生涯に三百六十以上の作品を生み出しており、「十六夜清心」「三人吉三」「白浪五人男」「髪結新三」「河内山」「播随長兵衛」「加賀鳶」などなどなど、今も頻繁に上演されている作品の大半と言って良いほど多くの作品が黙阿弥によるものです。
その渡辺保さんによる「河竹黙阿弥が描いた江戸は、江戸そのものではない」という指摘は、私が拙い文章で書く何倍も説得力があります。
私たちが今日「江戸」だと思っているものは、こうしてつくられたものが多い。全てがそうだとはいわないし、その全てが黙阿弥がつくったともいわないが、少くとも「直侍」に「江戸」を感じるとしたらば、その一半はこのつくりものによっていることは事実である。
黙阿弥は「江戸」をつくり、その歴史をつくった。その幻想の歴史こそ「直侍」の本質であり、それを「江戸」として受けとった近代に対する、これは黙阿弥の復讐であった。
自分が黙阿弥について言及することになるとは思いませんでしたが、黙阿弥に限らず、円朝の落語にしても、同時期の絵画や美術品についても、懐古的なテーマのなかに現代的なリアリティと科学的な分析視点を導入したことが、明治期における日本文化の一つの転換点だと思います。
観阿弥、世阿弥以来の「日本美学」、茶道における「わびさび」などを「道」ではなく西洋哲学と比肩できる「日本哲学」と捉え直し、その文脈の中で西洋文化と対比して、日本文化の特徴を抽出する、という作業が、明治期に日本文化を「日本文化」として空中に固定せしめたのではないか、というのが、私の仮説です。
それが、演劇で行われたのが、河竹黙阿弥をめぐる演劇改良運動との軋轢ではなかったのでしょうか。また、それまでの大和言葉では、候文や仮名書きをはじめ、独自に「書き言葉」が発展している中に、江戸言葉を明晰に話す円朝の語りから、文学を書く言葉としての「日本語」を成立させた言文一致体の運動というのも、日本文化を「日本文化」へと結晶させる試みではなかったのか、と思います。
こういう話を考えるには、やはりこの方の本が最適かも知れないなと思います。
ややこしいことをややこしいママに語り、考え、開いていくという作業において、橋本治ほど、平易に、そして、美的に語る人は他を置いてないと思うからです。
つくづく惜しい方をなくしたものだと思うけども、それでも、彼の考えていたこと、作り出したものから、この国に何が起きたのか、もう一度考えることはできる。
私なんぞがやることではないのですけど、そのあたりを考えることで、自分の中の何かを問い直しておきたいと思います。
さて、こうして江戸から明治へと抽象化の過程を迎える「日本文化」ですが、さらに大正を経て昭和を迎え、もう一度大きな転換点を迎えることになります。大東亜戦争こと太平洋戦争の終結です。
話がさらにややこしくなりそうだなあ。
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