「桜田門外の変」は門の正式名称が「外桜田門」なのに、どうして「外桜田門外の変」とは言わないのですか?
先日の「お上り国会図書館ツアー」のあとは、桜田門から皇居外苑を回り、丸の内まで散策しての帰りとなりました。
その途中、桜田門をくぐったのですが、その前にはこのような立て看板の説明がありました。
そこではじめてわかったのですが、桜田門というのは正式には「外桜田門」(そとさくらだもん)ということでした。
そこで疑問を持ちました、「外桜田門」というのが正式名称なら・・
「桜田門外の変」は正式には「外桜田門外の変」というべきではないか
と・・・・
と、
どうでもいいことを疑問に思った・・・のでした。
みなさんはどう思いますか?
そこで三人の学者💦に聞いてみました。
以下がその解答です。
まず・・・・、
★Bing Copilot 先生
「桜田門外の変」という名称についてですが、正式名称が「外桜田門」であるにもかかわらず「外桜田門外の変」とは言わない理由は、歴史的な慣習や言葉の簡略化が関係しています。
まず、「桜田門外の変」は1860年に起きた事件で、江戸城の「外桜田門」の外で発生しました。この事件の名称が「桜田門外の変」となったのは、以下のような理由が考えられます:
言葉の簡略化:正式名称をすべて含めると長くなるため、一般的に使いやすいように「桜田門外の変」と簡略化された可能性があります。
歴史的な慣習:事件が起きた場所を指す際に、正式名称よりも一般的に知られている名称を使うことが多いです。「桜田門」という名称が広く認識されていたため、その名称が使われたと考えられます。
このように、言葉の簡略化と歴史的な慣習が影響して、「桜田門外の変」という名称が定着したのです。
★Gemini 先生
「桜田門外の変」という名称が定着しているのは、いくつかの理由が考えられます。
1. 簡潔さ
「外桜田門」: 少し長い名前で、口語的に言い回しがやや複雑になります。
「桜田門」: より簡潔で覚えやすく、一般に広く認知されている名称です。
2. 歴史的経緯
事件発生時の呼称: 当時の記録や人々の口伝において、より簡略な「桜田門」という呼称が定着した可能性があります。
後世の定着: 歴史書や教科書などにおいても、「桜田門外の変」という表記が一般的となり、それが広く世に広まったと考えられます。
3. 他の事件との区別
江戸城には複数の門: 江戸城には多くの門があり、「外桜田門」以外にも「桜田門」と呼ばれる門が存在しました。
事件の特異性: この事件は、江戸城の門前で起きた大事件として人々の記憶に深く刻まれ、「桜田門」という名称が、この事件を象徴する言葉として定着したと考えられます。
4. 語呂の良さ
「桜田門外の変」という響きは、出来事の重大さを表す言葉として、語呂が良いと感じる人もいるかもしれません。
まとめ
「桜田門外の変」という名称が定着した理由は、簡潔さ、歴史的経緯、他の事件との区別、語呂の良さなど、複合的な要因が考えられます。
補足
「外桜田門」という正式名称は、厳密には「外桜田御門」と表記されることもあります。
「桜田門外の変」は、日本の歴史における重要な事件の一つであり、幕末の動乱を象徴する出来事として、現在でも広く知られています。
これらのことを踏まえ、なぜ「外桜田門外の変」とは言わないのか、という問いに対しては、一つの明確な答えを出すことは難しいですが、様々な角度から考察することで、より深くこの事件について理解を深めることができるでしょう。
★ChatGPT 先生
元々、桜田門(さくらだもん)は江戸城(現在の皇居)の正面玄関の一つであり、そこに対して外側に位置する門が「外桜田門(そとさくらだもん)」です。
したがって、「桜田門外の変」という言い回しは、厳密には「桜田門の外で起きた変」という意味合いで使われています。
この表現は、歴史的な事件である「桜田門外の変」が有名になったことにより、その名称が定着しました。もし正確な表現をするならば、「外桜田門外の変」というべきですが、一般的には「桜田門外の変」という短縮された形で使われています。
言葉遊び的な観点からは、確かに「外桜田門外の変」とすれば、冗長になりますが、歴史的な文脈や一般的な使用から見て、「桜田門外の変」が正しい呼称として認知されています。
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以上3人の先生の解答はいかがだったでしょうか?
わたしのどうでもいい質問にきちんと答えてくれました。
とくにGemini先生はこの質問に対しては一番多くの説明をしてくれました。
やはり一番の理由は言葉上、発音上のことのようですが、、その他の理由も付けてくれました。
それから桜田門外の変は門の入り口に続く橋の上で起きたのかと思っていたのですが、どうやら、現在の警視庁本庁舎を正面に見て、警視庁の建物とお濠の間のあたりだったようです。
悲惨な事件ですが、当時の政治状況や国内外の状況が絡み合い、今となってはいろんな疑問が残る歴史ロマンにもなりますね。