『オーディーン 光子帆船スターライト』

 『オーディーン』……といっても『聖闘士星矢』のアスガルド編の話や、『ダンボール戦記』のLBXの話じゃないよ!
 今回取り上げるのは。アニメ史上に燦然と輝くヒット作である『宇宙戦艦ヤマト』。その親戚ともいうべき作品であるところの『オーディーン 光子帆船スターライト』だよ。
 『オーディーン』がわりと不憫なのは、似たような立ち位置(故・西崎義展によるポスト『ヤマト』企画)である『宇宙空母ブルーノア』よりも忘れられていること。『ブルーノア』はTVアニメだったこともあってか覚えている人も(『オーディーン』より)多いし、ネタ半分にでも言及されることも少なくない。たとえば'09年の『宇宙戦艦ヤマト復活篇』では、ネタ的に同名艦が登場していたりした。
 ところが'85年の『オーディーン』のほうはなかなかそういう感じで脚光浴びることがない。話題に出ても「ああ、あったねー」とか「LOUDNESSが主題歌だったよね~」の域を出ない。というわけで今回は、「忘れられてそうで忘れてない少し忘れられている」『オーディーン』を思いだしてみたいと思う。
 先に書いた通り『オーディーン』の公開は'85年。まずは、このころのアニメの状況を振り返ってみよう。
 '85年というのは、ひとことでで言うと、アニメブームの終わった年。'85年~'88年あたりは、アニメ誌がバタバタと休刊したり、見たいアニメはTVじゃなくて、(値段の高い)OVAに移行した時期。つまりTVアニメの再編期でもあって、'80年前後のブームを体感していた当時のファンにとっては、それまでのように無邪気にファンでいつづけるのが難しいと感じるようになっていた時期だった。
 そんな時期に公開された『オーディーン』は、映像制作技術的にはかなり洗練されているが(キャラクターデザインは湖川友謙だし、光子帆船というタイトルだけに透過光も印象的に使われ美しい)、一方で物語はわりと古くさい。'83年の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』も、ちょっと大時代的な感じがする作品だったが、『オーディーン』はそれよりもさらにズレていた。
 というのも『オーディーン』が描こうとしていたのは「果てしない航海のロマン」だったから。アニメブームの初期を牽引したのが『宇宙戦艦ヤマト』の持っていた「ロマンの香り」だったのは間違いない。でも'85年には、そういう「ロマン」はもう時代遅れだった。そういう意味では「ロマンを描こうとした最後のアニメ」がこの『オーディーン』だったのかもしれない。
 ロマンを描きたいというスタッフ(おそらく西崎プロデューサー)の姿勢は映画冒頭から明確だ。
 まず出てくるのが、B.C1500年にエジプトのハトシェプスト女王が航海を指揮し、インド洋を発見した光景。SFアニメを見に来た人は驚いただろう。ここから「北欧バイキングの北氷洋征服」「コロンブスのアメリカ発見」「マジェランの太平洋発見」と人類が大海に乗り出していった歴史を振り返り、「勝海舟艦長の咸臨丸が日本人として初めて太平洋を横断」という妙にドメスティックなトピックに触れながら、現在の帆船・日本丸の姿につなぐ。そしてそこにかぶさるナレーション。「帆船は人間の限りない勇気と明日を拓く英知の象徴であった」。
 このタイトルが出るまでの数分間で、この映画では「ロマン」それも「未知の世界への航海のロマン」が強く打ち出される。
 もちろんこの「航海のロマン」とは、クルーザーのオーナーでもあり、亡くなるときも海で亡くなった西崎プロデューサーの一番訴えたかったことであろう。ヤマトが軍艦でストーリー展開上、敵を必要としたのに対し、本作のメインメカであるスターライト号は国連宇宙開発機構(ISA)が建造した船舶で、基本的に武装を持たないという設定。そこからも「航海のロマン」を積極的に描こうという姿勢が見えてくる。
 時は2099年。重力制御による新しい駆動機関を搭載した宇宙船スターライト号は、若き士官候補生たちを乗せてテスト航海へと出発する。そんな時、重力遮断航行のテストを実行する間際に、スターライト号に乗り込んできたのが(イチオウ)主人公の筑波あきら(古川登志夫)。あきらは、宇宙航行技術大学の卒業試験でバカ教官を殴って乗員からはずされた落第生だったが、スターライト号に乗りたい一心で追いかけてきたのだ。
 どう考えても法律違反とか命令違反とか山ほどをしてそうなあきらの登場だが、甲板長(ボースン)の蔵本正之助 鈴鹿武船長も「威勢がよくて、おもしろい」とあっさりと受け入れてしまう……。「えっ? それでいいの?」と思いたくなるが、こういう展開こそ実は『オーディン』の描きたいことなのだ。
 それは中盤にもっと明確になる。
 中盤、謎の円盤の中から「アルゴ座カノープス星系にある惑星オーディーンからやって来た異星人の航海日誌」が発見される。鈴鹿船長は、それまでの航海の中で7人のクルーを失っており、この航海日誌の大発見を実績として、8時間後には地球へ帰るとクルーに宣言する。
 だが、あきらを中心とする若手クルーは、未知の知的生命体へのコンタクト、はるかオーディーンへの航海に心を奪われて、「年寄りがダメなら、若い俺たちがやればいいじゃないか」と艦長以下、上司を監禁してしまい、なんとそのままオーディーンを目指すのであった。
 嗚呼、素晴らしきかな若者の情熱! ロマンこの上ない。このあたりの激情のほとばしりは『仁義なき戦い』の笠原和夫脚本らしい……とか言っていいのだろうか(脚本はほかに舛田利雄、山本暎一もクレジット)。とにもかくにも『オーディーン』の「航海のロマン」は実はこのように「若さ故の情熱」と深く結びついていて、それは常に全力で肯定されるのだった。そしてその象徴が、勝手に乗り込んできて、勝手にスターライト号を操縦してほ船長にほめられ、それにもかかわらず、ふね長たちへの反乱を企てる筑波あきらという主人公なのだった。
 ところで今思ったけど、筑波という名字は、'85年の筑波万博からとられているね、きっと。
 ことほどさように、なかなかあきらは個性的な性格をしているのだが、映画の中ではなかなかキャラが立たないのだ。
 それはこの映画が若者の群像劇を狙って、多彩なキャラクターを配置しているため、キャラが食い合ってしまっているのだ。にもかかわらず、映画はスターライト号視点で進むので、そこに乗り込んでいないあきらの登場は主役としてはかなり遅くなってしまっているのだった。
 なにしろクルーで第一声を発するのは、少々お調子ものの竜王直紀(若本紀昭(現・規夫!)。さらにスターライト号の操縦でメインになっているのは優等生で友人にしてライバルのマモル・ネルソン(堀秀行)だし、出航シーンで残してきた祖母へ思いをはせるのは、石毛二郎(古谷徹)。
 あきらが本格的に登場してキャラクターがたってくるのは、これらキャラクターの印象がついてからのことなので、どうしても後手にまわった印象はぬぐえない。
 今見直すと、このあたりの印象の弱さが、そのまま作品の印象の弱さになってしまっていることがよくわかる。
 ともあれこのような若き船乗りたちは、途中で救助した謎の少女サラ・シアンベイカー(潘恵子)を一種の水先案内人のようにして、オーディーンを目指すのであった。
 ちなみに以前、音響監督の鶴岡陽太氏に取材をしたことがあるのだが、鶴岡氏が音響関係の仕事を始めた最初のアニメがこの『オーディーン』だったという。制作助手としてクレジットされている鶴岡氏だが、具体的には音楽制作の助手だったという。
 音楽にクレジットされているのは宮川泰、羽田健太郎、高崎晃、天野正道、安西史孝の5人。音楽にこだわりを持つ西崎プロデューサーが直接担当したのは宮川泰、羽田健太郎といった『ヤマト』でも仕事を共にしているシンフォニックなスコアを書く2人。一方、鶴岡氏がかかわったのは主題歌を担当したLOUDNESSの高崎晃や、天野正道、安西史孝といったシンセサイザーを得意とする2人(この2人は'83年に『うる星やつら オンリー・ユー』のサントラも担当)のほうだったという。こちらは若者たちのテーマなどを中心に担当している。つまり音楽の上でも「大人/若者」という対比が意図的につくられており、音楽の面からも作品のテーマを補強しているのだ。
 「航海のロマン」を前面に出した作りは、ロマンもあるが同時に戦争ものでもあった『ヤマト』との差別化でもあったろう。ところが、「歪曲点」(ワープが可能になる特殊なポイント)を超えて、太陽系からはるか遠い宇宙に出たところから本作はぐっと『ヤマト』っぽくなる。
 未知の宇宙を進むオーディーンの前に現れたのは、アースゴード(石田弦太郎、現・太郎)。宇宙空間に禿頭のオヤジがどういう原理かわからないけれど「どーん」と映し出されているのは、スクリーンで見たらインパクトはあっただろう。インパクトだけは。
 このアースゴードは、入り込んできた地球人たちに対して、宣戦布告ともとれる台詞をつきつけ、戦闘が始まるのだ。
 武装を持たないスターライト号は、レーザー通信機を改造したりして、敵の戦闘機械と戦うことになる。効果音も『ヤマト』と共通だし、戦闘で重要人物が傷ついて死んだりする展開になれば否が応でも『ヤマト』が思い出させる。さらには艦載機で敵の要塞を攻略しようとし、その後、生身で敵陣に突入するという展開になってしまうとなるともはやなにもいうことはない。
 もちろん敵の戦闘機械が登場すると、わざわざテロップでその名前を観客に教えてくれるあたるも『ヤマト』風だ。 さらにいえばアースゴードの石田太郎といえば『ヤマト完結編』のルガール大神官大総統だったわけだし、サラの潘恵子は『ヤマトよ永遠に…』のサーシャを思い出させる。
 このように、『ヤマト』とはまた違った側面をもって始まった『オーディーン』だが、後半にだいぶ『ヤマト』に接近するかたちでクライマックスがつくられることになる。これもまた『オーディーン』という作品の個性をあやふやにしてしまった感がある。
 しかし、どうしてスターライト号は突如襲われたのか。クライマックスの戦いの中で明らかになる内容はネタバレになるので細かくは書かないが、そこにあるのは機械と人間の対立で、そこでは当然ながら機械に対する人間の感情の豊かさが肯定される。そして、その人間味を肯定する論理は、血気盛んなスターライト号の若者たちをも肯定することでもある。
 つまり『オーディーン』はまずベースに『若者のエネルギーの肯定』があって、前半はそこに「航海のロマン」を、後半はそこに「人間性の回復」が乗っかっているという作りになっているのだった。
 公開当時から指摘されていたことだが、この映画、惑星オーディーンを目標にしながらオーディーンに到着することはないのだった。そして、続編は作られることがなかった……。まあ、当然といえば当然ではあるけれど。
 でも四半世紀たって見てみると、これはつまり、夢は追い続けるから夢、ということなんじゃないだろうかと思えないでもないのである。夢を追い続けている間は、若者は若者でいられる。筑波あきらたち若きクルーは今もまだ見果てぬ目的地を目指して遠い宇宙を航海しているのではないか。
 時代遅れでも「ロマンはロマン」。興味を持った人はどこかでソフトを探して見てみるのもいいかもしれない。
 最後に一つ注意をしておくと、エンドクレジットはLOUDNESSのライブ映像が唐突に実写で出てくるけど、びっくりしちゃダメだぞ!

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