武蔵野とアニメ


2023年発売の『らき☆すた さいたま展完全ガイド 武蔵野樹林特別号』(https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/product/322301000630.html)に寄稿した原稿です。


 東京西部から埼玉県東部に広がる武蔵野台地。この日本最大規模の洪積台地の上に、“アニメ”というレイヤーを重ねてみると、武蔵野台地にニョキニョキと団地が“生えていく”光景が浮かび上がる。それは一九六〇年代から現代に至る武蔵野台地の歴史の、変化の一コマだ。
 アトムが初登場する漫画『アトム大使』の掲載は一九五一年。その二年後の一九五三年、『鉄腕アトム』の中の一編として「赤いネコの巻」が描かれるが、ここに国木田独歩の『武蔵野』への言及が登場する。
 物語は、武蔵野の自然を偏愛するマッドサイエンティスト・Y教授が、武蔵野で行われるビル開発の計画を止めようとする内容。その冒頭でヒゲオヤジが「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」という有名な一節などを、パロディっぽく語りながら都会を歩いていく。
 そして「わしの子どもの頃にはまだ東京にも緑の雑木林があったのだが/いまでは山の手のほうにわずかに残っているだけで、そこもやがてビル街になろうとしている/わしゃ だから山の手のほうに散歩するのが大好きでな」と、読者をこの物語の舞台である“武蔵野”へと導いていく。そして物語の結末もまた『武蔵野』で締めくくられる。
 そしてそこから一〇年ほどが経った一九六三年一月、アニメ『鉄腕アトム』の放送が始まる。アニメ『鉄腕アトム』は、三〇分枠で週一回放送されるという、国産による初の本格的TVアニメだった。制作したのは手塚治虫が設立した虫プロダクション。そこで同年九月二四日に第三九話「赤い猫」が放送されている。これが「赤いネコの巻」のアニメ化である。
 「赤い猫」のほうでは残念ながら原作にあった『武蔵野』への言及はカットされている。ついでに加えると悲劇で終わった原作に対し、アニメはハッピーエンドになっている。しかしこのアニメ化で興味深いのは、東京に残された数少ない自然林を開発する理由が、原作の「ビル建設」から「住宅地の造成」となっているところだ。画面を見ると、現場では鉄骨を高く組んでいるようだから、これはもしかすると団地を建設しているのかもしれない。
 というのも、日本住宅公団が設立された一九五五年以降、つまり昭和三〇年代に入ると団地の建設が盛んになっていくのだ。例えば阿佐ヶ谷住宅は一九五七年から入居が始まっているし、ひばりヶ丘団地は一九五九年に造成された、マンモス団地のはしりであった。朝鮮戦争の特需による好景気を背景にしたビル建設のラッシュから、住宅不足に対応する住宅建設へ。原作「赤いネコの巻」からアニメ「赤い猫」に至る一〇年の間に起きた武蔵野台地の変化が、そこにはささやかながらに記録されているのである。

 こうした団地の増加の影響を大きく受けたのが西武鉄道だった。
 原武史は「私鉄近郊という<場所>  武蔵野の沿線文化の誕生とこれから」(『武蔵野樹林』VOL.2掲載)で、ビジョンをもって沿線開発した東急と対比する形で西武線を説明する。
「西武線沿線はまったく事情が異なります。堤(引用者注:堤康次郎)は国立、大泉、小平の三カ所に学園都市を作ろうとしましたが、成功したのは中央線沿線の国立だけで、西武線沿線の大泉と小平は失敗した。住宅開発が進まない半面、清瀬から東村山にかけての一帯に病院や療養所が集中していました。そのような、基本的にはなにもない場所に、一九五〇年代後半になって突然団地が出来た。一挙に何百戸や何千戸という巨大な団地がポンポンできていく。こうした住宅は、西武が積極的に開発したというより、日本住宅公団(現・都市再生機構)が開発し、西武がそれに便乗したのです」
 西武とはもともと「武蔵野の西の地域」を指す言葉。そして戦後の日本のアニメーション産業の先頭ランナーである東映動画(現・東映アニメーション)と虫プロダクションは、ともに西武池袋線沿いに設立された企業だった。
 東映動画は、一九五七年に練馬区の東映東京撮影所の隣接地に新スタジオを建設。最寄りの大泉学園駅は、原の解説の通り、学園都市化を狙ったものの学校を誘致できなかった駅であった。東映は、東映動画設立にあたり戦前からのアニメーション制作の流れを汲む制作会社・日動映画を買収した。日動で働いていたアニメーターの森やすじは、大泉の新スタジオを見た時の感想を次のように記している。
「新築された 練馬 大泉の 東映動画スタジオに引っ越しをしたのは 寒い冬の日でした
 大泉は 遠いところに思えました
 でも 麦畑のむこうに 新築 三階建てのビルが見え 『あれが 我々の新居だ』と 聞いたときに 今までの住まいとあまりにも違って まるで ヴェルサイユ宮殿のように 輝いて見えました
 そして そこで 『こねこのらくがき』を作りはじめたのです 新しいスタッフを数人加え 新しい動画机 暖房装置のある部屋 しかも 水洗トイレ
 まるで夢のようだと思っていました」(アニメージュ文庫『アニメーターの自伝 もぐらの歌』)
 一方『鉄腕アトム』を手掛けた虫プロダクションは、当時の手塚(点のある塚。以下同じ)の自宅兼仕事場があった富士見台に一九六二年に設立された。
 虫プロの創設メンバーのひとり、演出家の山本暎一は自伝的小説『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』(新潮社)の中で、手塚がアニメーション制作に乗り出す直前の一九六〇年に、手塚治虫のところを訪ねた様子を記している。そこから少し抜粋してみよう。
 富士見台の駅についたアニメータ志望の青年・安仁は「地の果てじゃないか」と思う。当時は池袋も「東京の北の盛り場というよりは、埼玉の南の盛り場といったほうがぴったりする、パッとしない街」であり、そこから電車で一〇分あまり来た練馬の駅で「もう沿線に畠が広がりはじめ」「季節によっては、あけた窓から大きな蛾が飛びこんでくることもある」。そこからさらに二駅先の富士見台駅は、「駅前の道に、古ぼけた家が映画のセットのように一列並ぶだけで、そのうしろはすぐ畠である」。
 手塚の自宅の門の向かい側は草地で、そこでは牛が飼われていた。「パラパラと農家があって、畠で草を燃やしているひとがいる。まさに、絵に描いたような田園の風景である。(略)ふと気がつくと、雑木林の枯れ枝ごしに、遠く西南の空に富士山が見えた」
 同書は、主人公・安仁のプライベートな部分は別として、仕事に関するところは「ほとんどが真実」(あとがきより)というから、一九六〇年代の富士見台の様子も山本の体験をそのまま書いたのであろう。
 森と山本の回想には、ともに昭和三〇年代になって住宅地化が進んでいく前の、最後の武蔵野の風景が書き留められているのである。
 団地とアニメという関係に注目すると、無視できない会社がもう一社ある。それは東京ムービー(現在のトムス・エンタテインメント)である。同社は人形劇団「ひとみ座」の藤岡豊が、TBSよりアニメ制作を依頼され、一九六四年に創業した会社だ。同社は創業してすぐに移転し、阿佐ヶ谷住宅のすぐ近くにスタジオを構えることになった。どうして阿佐ヶ谷住宅の近くにスタジオを構えたのか。これは一説には、アニメーションの仕上(セル画に色を塗る工程)のスタッフを確保するため、団地の専業主婦をパートタイマーとして見込んだためだといわれている。
 こうしてみると武蔵野台地に「新しい生活」を象徴する団地が林立していく過程と、戦後のアニメーション産業の離陸していく過程が重なり合って見えてくる。『鉄腕アトム』から始まった初期のTVアニメでSFアニメが人気を集めたのも、「団地が増えていく」という未来志向の時代の気分と決して無縁であったとは思えない。
 なお二〇二二年には団地を題材にしたアニメ映画『雨を告げる漂流団地』と『ぼくらのよあけ』が相次いで公開され話題になった。『漂流団地』のほうは、ひばりが丘団地など複数の団地を取材しており、『ぼくらのよあけ』のほうは阿佐ヶ谷団地を題材にしている。両作とも団地は、登場人物の記憶と深く結びつき、やがて取り壊されてしまう場所として描かれていた。こうしてみるとこの2作品は、黎明期の熱気をともに過ごしたアニメから団地への「別れの挨拶」のようにも見えるのだった。

 武蔵野台地に“アニメ”というレイヤーを重ねると「団地」という存在が浮かび上がってきたが、では、逆にアニメに“武蔵野台地”というレイヤーを重ねると何が見えてくるか。そこに垣間見えてくるのは、はるか太古の「縄文時代」である。
 『となりのトトロ』は、テレビが普及する前の埼玉県所沢市のあたりの農村を想定して描かれた作品だ。狭山丘陵はこの『トトロ』のモデルとなった場所のひとつといわれており、ナショナル・トラスト運動により五十九カ所の森が「トトロの森」として守られている。そういう点では『トトロ』は狭山丘陵を代表するアニメといえる。
 そんな『トトロ』に縄文土器がさり気なく登場している。
 『トトロ』は、サツキとメイの姉妹が引っ越してくるところから始まる。そしてある日、妹のメイは庭で遊んでいるうちに、不思議な生き物(小トトロと中トトロ)を追いかけ、藪の中を抜けて、大きなクスノキの洞の中へと転がり落ちてしまう。気がつくと、そこには大きなトトロが寝ていた。このメイが紛れ込んだトトロのねぐら(?)に、縄文土器が三つほど置かれれいるのだ。画面を見ると確かに縄目らしき模様がついている。
 宮崎駿監督の手による絵コンテには、アップで出てくる土器について「縄文土器みたいな器」とはっきり描かれているし、宮崎監督はインタビューでも「縄文人から縄文土器を習って、江戸時代に遊んだ男の子をマネしてコマ回しをやっているんでしょう(笑)。トトロは三千年も生きてますから。本人にとっては、ついこの間習ったことなんです」(徳間書店『ロマンアルバムエクストラ となりのトトロ』)と語っている。
 実際、調べてみると狭山丘陵の「トトロの森1号地」の半径2キロほどの中に、複数の縄文遺跡が見つかっている。『武蔵野』の冒頭に「武蔵野の俤(ルビ:おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と書かれた「入間郡の小手指原久米川の古戦場あと」も、「トトロの森1号地」から数キロの距離にあり、そこでも縄文遺跡が見つかっている。
 また、千葉敏朗の「武蔵野の縄文時代の植生 縄文の森 狭山丘陵」(『武蔵野樹林』VOL.2掲載)では、狭山丘陵にある下宅部遺跡の発掘成果をもとにした復元画が掲載されている。そこには集落の近くにはクリやウルシが植えられ、その奥には自然林のコナラ、クヌギ、カシ、ケヤキが生えている様子が描かれている。一方、トトロが傘のお返しにサツキとメイに届けたドングリは、クヌギ、シラカシ、コナラ、マテバシイなど。復元図の植生と重なるところが多い。これらは、いずれも縄文人が食べていたドングリで、もしかするとトトロは、傘のお返しに“オヤツ”を贈ったつもりだったのかもしれない。
 このように『となりのトトロ』の描いた昭和中頃の風景は、トトロを介して武蔵野時代の縄文時代と地続きになっているのである。
 そして縄文遺跡といえば、『らき☆すた』に登場した鷹宮神社のモデルとしても知られ、“聖地巡礼”の代表的スポットとして知られる、埼玉県久喜市の鷲宮神社も無縁ではない。鷲宮神社は『吾妻鏡』にもたびたび登場する、関東を代表する古社。その境内から縄文時代の住居跡のほか、土器、土偶の脚部や石器などが発見されているのである。
 『縄文神社 首都圏篇』(飛鳥新社、武藤郁子)は、縄文時代の遺跡と神社が重なっている場所を「縄文神社」と呼んでいる。同書によると、境内や周辺から縄文遺跡が見つかっている神社は「かなりある」とのこと。そして同書は「縄文神社がありそうなロケーション」として「台地(河岸段丘、海岸段丘など)の上」「湧水があるポイント」「水辺につき出した土地の先端(岬・島)」などの条件をあげている。これはつまり、縄文時代に生活しやすい環境であったということだろう。
 実際に調べてみると、今から約六〇〇〇年前の海面上昇、いわゆる縄文海進で久喜市の西側は島状、あるいは半島状の高台であったといわれているそうだ。また鷲宮神社の境内には「光天之池」があり、これは土砂が流れ込んで埋もれた池を、一九九九年に掘り起こしたら、池から湧水が溢れ出たのだという。かねてからの湧水が、時を経てまだ生きていたのだろう。縄文時代にここに住んでいた人々も、もしかするとこの湧水をあてにしていたのかもしれない。
 もちろん『らき☆すた』の映像には“鷹宮神社”の境内に縄文時代の遺跡が見つかったという部分が具体的に出てくるわけではない。しかし『らき☆すた』に“武蔵野台地”というレイヤーを重ねてみれば、“聖地”としてファンが集うハレの場所となったここ十数年の鷲宮神社の歴史の向こう側に、『吾妻鏡』以降の格式ある神社としての歴史、そして縄文人たちが近くの海の海産物を食べて暮らした生活の場所としての歴史が浮かび上がってくるのである。それぞれ理由は違っても、いずれも「人々の集う場所」として三つの時間が重なり合っているところがおもしろい。
 そして縄文海進といえば忘れていけないのが『天気の子』である。本作は、家出をして東京に出てきた少年・森嶋帆高と、雨を止めることのできる「100%の晴れ女」の天野陽菜の出会いを描いた作品だ。
 映画のラストは、降り止まなくなった雨によって水没した東京の姿が描かれる。それはまるで縄文海進のころの海岸線が現代に蘇ったようでもある。その水没した東京を、帆高と陽菜は、田端駅の南口を出た先にある坂道から見ることになる。
 田端は、武蔵野台地の東側、荒川によって形成された「荒川崖線」の東端に位置している。そのため台地の上にある田端駅の南口から見ると、ちょうど水没した沖積平野を見下ろす形になるのだ。そして田端駅から1キロほど離れた場所には、縄文時代中期中頃から後期初め(約四六〇〇~三九〇〇年前)の中里貝塚がある。つまり二人が見つめたあの東京の風景は、未来の東京の風景であると同時に、縄文人が見ていた風景でもあるのだ。

 武蔵野台地から見るアニメとアニメから見えてくる武蔵野台地。ひとつ異なるレイヤーを重ねるだけで、武蔵野台地もアニメも、また違った顔を見せてくれる。

 

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