アニメエッセイ『新Anime喜怒哀楽』「心の触れあい、キスの喜び」

どこかの雑誌で何度か連載した『新Anime喜怒哀楽』の中から、「心の触れあい、キスの喜び」の再録です。来年以降、こんなアニメエッセイを一般媒体で連載できるといいなぁと思ったりしますが、なかなかハードルは高いようにも思ったり。

(タイトル)
心の触れあい、キスの喜び
(本文)
『化物語』第12話「つばさキャット 其ノ貮」で、ヒロイン戦場ヶ原ひたぎは言った。
「そういえばあの下司は私の体だけが目当てだったから、私の唇を奪おうとはまったくしなかったわね。……阿良々木、だからキスをします」
 戦場ヶ原と主人公・阿良々木暦は星空の下でキスを交わす。
 体が目当てだと、唇は狙わない。
 キスも肉体の接触にもかかわらず、ここではそれ以上に心の問題として語られている。
 思えば、江戸時代の遊郭でまだキスが「呂の字」(口と口がつながっているから)という隠語で呼ばれていた時も、高いランクの遊女は、気に入ったお客としか「呂の字」をしなかったという。
 そう、キスというのは現実であろうと、フィクションであろうと、いつも「心の問題」。心と心を触れあわせたくて、でもそれができないからこそ、人は唇にその思いを託すのだ。
 たとえば『未来少年コナン』第8話「逃亡」。
 主人公コナンとヒロインのラナがボートで逃亡し、追跡者によってボートが撃沈される。手錠で体の自由を奪われたコナンは、その手錠が水中の破片にひっかかってしまい海底から浮かび上がることができなくなってしまう。ラナはそんなコナンを救うため、空気を口移しで吹き込もうと海面と海底を往復する。
 ラナが懸命に潜水をする姿に「生きて、コナン」という心の声が重なる。必死の水中キスを通じてラナがコナンに伝えたのは空気だけではない。このラナの強い思いもまた唇を通じて、コナンに伝えられたのだ。
 コナンとラナの水中キスと並ぶ印象的なキスシーンを挙げるとするなら、やはり劇場版『銀河鉄道999』を思い出す人も多いはず。
 機械の体を求め始まった旅のすべてを終えて地球へ戻ってきた鉄郎とメーテル。だがメーテルは999で去らなくてはならない。999の発車ベルが鳴る中、メーテルはやさしく鉄郎に口づける。驚いて体を固くする鉄郎、メーテルの唇は、やさしくついばむように鉄郎の唇に触れる。
 鉄郎にとっては母(保護者)でもあり、大事な旅のパートナーでもあったメーテル。鉄郎は次第にメーテルを愛の対象として見るようになっていた。
 だがメーテルは鉄郎のことをどう思っていたのだろうか。
 具体的に明かされることのなかったメーテルの心の中が、この優しいキスのうちに明かされている。年長者のやさしく包み込むようなキス。けれどもキスは頬ではなく、心と心を伝える唇同士を触れあわせる。
 自分の心をずっと押し殺して無数の旅を続けてきたメーテル。このキスはそんなメーテルの心の奥底からあふれ出た思いの現れだったのかもしれない。
 映画を締めくくるナレーションはこうだ。
「今、万感の思いを込めて汽笛がなる. 今、万感の思いを込めて汽車がゆく」
 メーテルと鉄郎のキスにもまた万感の思いが込められていたのである。
 もちろん思いを込めたキスが、いつも通じるとも限らない。『新世紀エヴァンゲリオン』の『Air/まごころを君に』の一幕、葛城ミサトと碇シンジのキスがそうだ。
 戦略自衛隊の突入で危機に陥る特務機関ネルフ。戦略自衛隊の狙いは、エヴァンゲリオン・シリーズのパイロット。次々とネルフ職員達が蹂躙されていく中、シンジたちの上官で、保護者でもあるミサトは、シンジに口づけをする。
 ミサトは、追い込まれても自ら動こうとしないシンジの背中を押すため、唇を使ったのだ。そこにあるのは男女の愛ではない。保護者になろうとした(でもあまりうまくできなかった)不器用なミサトが、自分の思いをシンジに伝えようとした時、キスという手段でしかそれを表現できなかった、ということなのだ。
 キスを終えてミサトは言う。
「大人のキスよ……帰ってきたら続きをしましょう」
 だがミサトのキスでもシンジは変わることはなかったし、画面の中で二人の再会が描かれることもなかった。キスという心のふれあいの極点のような行為を通じてもなお心が通い合わないのは、いかにも『エヴァ』らしい。そしてミサトがキスに込めた思いが宙づりになればなるほど、『エヴァ』らしさもまた際だつ。
 キス。それは唇を通じて心と心が触れあうこと。たとえ触れあった心と心がすれ違っても、触れあったことには確かに喜びがある。
 だから人はキスに憧れる。

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