『個人的な体験』を読んで

 最後の最後まで何が起こるかわからない小説だったとぼくは思った。主人公のバードは予備校の講師をやりながら、アルコール依存症に苦悩する青年で、妻をもちながら火見子という女性と不倫していた。子どもはまだ、赤ん坊なのに何の運命のめぐりあわせなのか「脳ヘルニア」という障害をもって生まれてきてしまった。青年バードは酒に逃げて、はたまたアフリカに逃げようとも考えてしまう。医師も味方してくれず、逃げ回る主人公バード。一行たりとも油断できない倫理的緊張感にみなぎっていた。それでも苦難を乗り越えようとする主人公バードに共感してしまうぼくは善いのかどうかわからなかくなっていった。魂の叫びにも似た主人公バードの言葉に目が熱くなってしまった。25歳という歳でこのような人生の選択を責められるのは、かなり酷だ。魂の救済が全編とおして描かれているが、信仰がそこにはない。それも恐ろしいが、表現が、いや語り口ががねちっこくて圧倒されてしまう。

 ぼくがある日、母親と大型ショッピングセンターに行ったとき、ちいさな子どもが大きな雑貨店の靴下コーナーに「ママ!ママ!」と叫びながら泣いていた。よもや、迷子かな?と思ったときに女性が血相をかえて子どもの名前を叫びながら飛んできた。その後ろには警備員らしき人もいた。「ここにいますよ!」と靴下コーナーを指したら、はたしてその女性はその子どもの母親だったのである。これは母親にとってはちいさな魂の救済だったのかもしれない

 あの時、あの場所で、こうしなかったらどうなっていたか。このことを考えるときにアリストテレスの『二コマコス倫理学』の一説を思い出す。アリストテレスの『二コマコス倫理学』はもう何十回も読んで身体にしみこんでいる。

つまり、「然るべき時に」、「然るべき事柄について」、「然るべき目的のために」、「然るべき仕方で、こうした感情をもつことが中間であり最善であるがそれは徳に固有のことである。(引用アリストテレス全集15巻『二コマコス倫理学』神崎繁訳第2巻第6章1106b20)

 また、京都で整形外科医をやっている女医の先生に「しかるべき時に、しかるべき仕方で、しかるべき量を叩き込んでおかないといけないわよ」と僕に教えてくれた。あの時、「身体にしみ込んだ《言葉》」が正確に行為にあらわれるのはまれだ。『個人的な体験』も「身体にしみ込んだ《言葉》」になるように何度も読み返したい作品である。

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